福原漁場 (ふくはらぎょば)



 北海道の日本海側には、鰊御殿と呼ばれる独特の形式で建造された豪邸が幾つか見受けられます。嘗て隆盛を極めた鰊漁の残照なのですが、その数ある遺構の中で横綱クラスと評されるのが小樽の高級旅館の銀鱗荘で、元は余市にあった猪俣家の御屋敷を移築し改造した建物。この豪壮で贅を凝らした豪邸が建てられたいたのは余市でも一番の漁場だった浜中地区で、明治期には沢山の鰊御殿や番屋が軒を連ねて林立していた場所でした。1954年(昭和29年)春の来襲を最後にパタッと鰊は来なくなり、その後は次々に廃業して見る影もなく廃れていきましたが、たったひとつ福原漁場だけが運良く残り、往時の状況に復元されて公開されています。国史跡指定。

 

 余市は江戸期より道内きっての鰊の漁場として発展した土地で、余市川河口近くの番屋でもあった下ヨイチ運上家と共に、往時の活況ぶりを偲ばせる施設ですが、下ヨイチ運上家は江戸期の運上家の状態に復元されているので、明治期のニシン漁最盛期を再現しているのはこの福原漁場だけということになります。特に番屋だけでなく倉庫や付属屋など複合的な作業場全てが残されているので、産業遺産としても極めて貴重な施設です。広さは約1万2千坪ほどで、番屋である主屋、文書庫、石蔵、米・味噌倉、網倉等が建ち並んでおり、今は眼前を国道が横切りますが嘗ては海岸線まで当家の敷地でした。

 

 海側正面中央に出入り口があり、そのまま奥へ通り土間が突き抜けています。この土間を中心として右手が親方の居住空間で、左手が漁夫達の就寝場となっており、その内部構成はこの土間によって大きく分断されています。
 その荒くれ者達のヤン衆が寝泊りしていた溜場(たまりば)は、約40畳の広さによる板の間。天井は無く屋根まで吹き抜けており、柱を簡略化してその分太い柱や梁で広々とした空間を支えています。土間寄りに囲炉裏が切られていて、その上には「てがけ」「てっかえし」と呼ばれる作業用の手袋が吊るされており、厳しい北海での仕事の一端が伺えます。壁際には二段ベッドのように寝台があり、若いヤン衆達はここで寝ていたようですが、換気が悪いらしくかなりスモーキーな境遇だったとか。一方船頭やベテランは下でぐっすり熟睡。

 

 

 囲炉裏の横にはヤン衆達の食事場所である飯台があります。この飯台の部分はコの字型に板の間が取り外せるようになっており、出来た通路にそのまま土足で入って食事をかっこむという、ワラジを脱ぐ手間を省いた合理的な造り。それだけ休む間も無かったのかもしれません。土間奥には竈や炊事場がありますが、体力勝負の現場だったらしく一日5回も食事を取っていたそうで、日中は竈の休まる暇も無かった模様です。

 

 親方の住む居室部は畳敷きの座敷が6部屋並ぶ平面構成で、漁夫の溜場とは対照的な正統的な和風建築の空間。土間側には帳場・茶の間と仕事用の部屋が並び、囲炉裏の切られた茶の間で親方がドカッと座って作業の監視を行っていたようです。奥には床の間や違い棚に透かし彫りの入った欄間も備えた格式高い書院造の座敷もあり、蟹工船的な格差がまざまざと見られます。

  

 

 主屋の隣には文書庫があり、地上三階地下一階の大型の土蔵です。この蔵は敷地内で最も古いもので、明治10年代に建造された福原家時代のもの。文書庫とは漁業権や金銭貸借・取引等の重要書類を保管するもので、耐火・耐震に努めた頑丈な造りとなっており、この蔵も漆喰と板の二重構造になっています。(漆喰は潮風に弱いので外部を分厚い板で被っている)
 この文書庫の隣には石倉があります。身欠き鰊や干数の子等の製品を保管する倉ですが、この建物は復元。その前の敷地は身欠き鰊を作る干場となります。

 

 

 さらに奥へ進むと米・味噌倉と網倉が並びます。米・味噌倉は1880年(明治13年)に建造された大きな木造の倉で、ネズミの食害を防ぐ為に戸にネズミ返しが仕掛けてあります。網倉は1914年(大正3年)の建造による小さなトタン板張のもの。

 

 

 敷地内には他にもトロッコや飲料水として使われていた湧水の小川も残されています。鰊御殿や番屋は他でも見られますが、規模は小さいながらも鰊漁に関しての設備が全て揃っている場所はここだけなので、一見の価値がある施設だと思います。

 



 「旧余市福原漁場」
   〒046-0021 北海道余市郡余市町浜中町150
   電話番号 0135-22-5600
   開館時間 AM9:00〜PM4:30
   休館日 月曜日 祝祭日の翌日 年末年始