独楽庵 (どくらくあん)



 出雲平野には築地松と呼ばれるこの地方独特の田園風景が見られます。暴風林用の高い黒松で囲われた豪農屋敷が田畑に点在する姿で、同じ裏日本の富山県砺波地区の散居村と共通する景観美です。出雲市郊外にある「出雲文化伝承館」は、市内きっての大地主だった江角家の母屋・長屋門・庭園をそっくりそのまま移築した施設で、築地松で囲われた枯山水の庭園も広がる豪農屋敷が無料で公開されています。ちなみにこの江角家住宅は1906年(明治39年)建造で、市指定文化財。

 

 

 でこの出雲文化伝承館は、中心となる江角家住宅以外に様々な施設を併設していて、まあバブル期の1991年(平成3年)開館ですから大型の公共複合的観光施設となっており、ギャラリーやホールに何故か蕎麦屋が2件と地方にありがちなゴッタ煮的な様相も見せています。
 その中で”文化伝承”の名に最も近いと思われるのがお茶室。御近所の松江藩主だった松平不昧公が高名な大名茶人でありましたから、それに因んでということで東京の御殿山にあった不昧公造営の大崎園の「独楽庵」という茶室が復元されています。

 

 大崎園は不昧公が1803年(享和3年)の56歳の時に構えた隠居所で、東京湾に臨む御殿山の高台に広がる一万九千坪にも及ぶ広大な敷地に、東館・西館と大規模な二つの御殿を建てて、庭園内に11棟の茶室を点在させた茶室・数寄屋のテーマパークのような豪邸でした。今で言うと横浜の三渓園に近いような形態ですかね。幕末には黒船襲来により幕府が砲台を建てる為に用地接収されて取り壊しとなり、今は跡形も有りません。この大崎園内で中心となっていたのは、利休好みの伝来を持つ茶室独楽庵。この独楽庵だけは貴重というわけか深川にあった松平家の下屋敷に移されましたが、直後の安政期の大地震により大津波が押し寄せて流失し、行方不明となっています。
 でこの独楽庵を復元する事業を担当したのが茶室研究の権威である中村昌生教授。事業の話を持ちかけられた際に、独楽庵を含む露地全体の古図が初出で示され、その複雑な露地構成を再現することに興味を惹かれて受諾したようです。ということでここは茶室の建物自体の復元というよりも、その露地全体の区割りや意匠を立体的に再現して、不昧公の空間デザイナー的なセンスを体感するような場といえるのかもしれません。独楽庵自体は戦前に北鎌倉で復元されて、今は八王子にありますしね。
 露地は外露地・中露地・内露地と三部構成で、それぞれの露地を門や中潜りで関所のように仕切った造りとなっており、三つの関所と三つの露地から「三関三露」とも呼ばれています。
 まず「独楽庵」の扁額が掲げられた門を潜ると最初の外露地となります。次の中門との間までは一面に河砂利が敷かれ、その中央を飛石と延段が真直ぐに延ばされ、左手奥に下腹雪隠と手水鉢と龍安寺型石燈籠が置かれ、そして右手奥には三畳間による「袴付」があります。

  

 中門を潜るとそこは中露地。外露地が東西に細長い形状なのに対して、こちらは南北に長い形状となり、北東隅に腰掛待合と砂雪隠があり、西側に密庵型石燈籠が置かれてあります。この石燈籠の北側の壁の一部が中潜りとなっており、この先の内露地へと誘われます。外露地から中門へと続く直線の動線はここで途切れており、また中門・腰掛待合・砂雪隠・中潜りの位置をずらせて配置させてあるので、それに合わせて飛石が中心部から放射状に散らばっており、石燈籠も含めてまるで舞台のセットのような趣を見せています。

 

 中潜りの向こうはいよいよ内露地。この内露地にも色々と仕掛けがあり、まず中潜りを抜けると飛石は二方向に分かれ、北側へ進む飛石は水の無い空堀を渡って中島へ向かい、南側へ進む飛石は空堀の淵を辿って延段に変わります。この延段の東側に待合と雪隠があり、延段の先に飛石が茶室へ向かって延ばされて行きます。中島から再び空堀を渡って茶室前へ伸びる飛石もあり、露地構成は非常に複雑。空堀自体が結界の役目を担っているようで、内露地の中にさらに内露地があるような状態です。石燈籠も多く全部で6つ。延寿院型・春日大社御間型・高桐院型と様々なタイプのものが設置されています。

 

 

 その内露地の中心に再現された独楽庵は、三つの茶室が合体した複合型の茶室で、独楽庵という名前自体はその内の一つの茶室を指し示すもの。元々は独立して存在してあったようですが、不昧公の元に来た時には既にこの姿であったようです。茅葺宝形造りの独楽庵を中心に、隣に柿葺切妻屋根の苔香庵と、背面にやはり柿葺切妻屋根の船越席が付く構成。中島を通る飛石の苑路は直接独楽庵へ通じ、待合の前を通る苑路は船越席の前に通じており、この船越席と独楽庵との境には妙心寺垣が塞いでいます。

 

 独楽庵は名橋と謳われた長柄の橋杭三本を秀吉から入手して宇治田原に造営した茶室で、内部は二畳と極少の間取り。床の間も有りません。天井は鏡天井で、炉は台目畳で向板を入れた向炉となり、その炉のある隅に太い橋杭が嵌っています。背面の船越席側に躙口がありますが、炉を挟むようにして貴人口も二つあるので、この貴人口二枚を開け放して外の風景を楽しむ為の茶室にも見えます。利休が造った同じ二畳の待庵よりは、松花堂の方に似ていますね。

  

 お隣の苔香庵は、裏千家家元六世泰叟好みの由来があり、内部は三畳台目向板に洞床が付く間取り。床の隣に向板を入れて炉を切っており、茶道口は太鼓襖二枚によるもので、この奥に水屋があります。独楽庵には水屋が無く、また独楽庵と繋がるのはこの茶室だけなので、独楽庵で茶事が行われる場合は必ずこの茶室が控えの間として使われることになります。

 

 もう一つの船越席は、古田織部の弟子である船越宗州好みの由来があり、三畳台目に下座床の間取り。内部の意匠は燕庵に似た織部風の茶室となっており、茶道口と給仕口は苔香庵の水屋に繋がっています。躙口の横に独楽庵の躙口があるちょっとばかり不思議な姿。

 

 この再現された茶室とは別に、新規に「松籟亭」という数寄屋建築も造られています。苑内は築地松に囲まれてとても広く、常緑樹の黒松やマテバシイ・タブノキに混じって落葉樹の楓なども植えられており、秋の紅葉の頃には彩り豊かな風景へと変わります。

 



 「出雲文化伝承館」
  〒693-0054 島根県出雲市浜町520
  電話番号 0853-21-2460
  開館時間 AM9:00〜PM5:00
  休館日 月曜日 年末年始