ここは奥道後から、高縄山へ登る道の途中にあります。高縄山頂には、河野氏の本城がありました。そして道後には居城湯築城がありました。ここはその間の通路です。城山のバスの終点から更に谷川沿いに一キロほど急な山道を登り、その谷川も途絶えたところに細い山道を跨ぐように、小さなお宮があります。厳しい山道ですが、武士の馬なら、全区間を一時間も掛からなかったのではないでしょうか。
河野水軍の守り神的な厳島神社の分社が此処に祀られたのは、その時代の物だと思います。
お宮から数百メートル道なりに登ると三軒ほど民家があり、高縄山頂四十丁と標識がありました。四十丁は、土地の人の足で二時間ほどだそうです。
鳥居に米山の書「大巧・若拙」がありました。この文字は、七年前南高井の正友神社の注連石に書かれているものと同じです。違いは、七年前の「大」が不自然と言ってよいほど小さく書かれていたのに、ここの「大」は大きく書かれています。少なくとも小さくはありません。
七年間に米山の心境になんらかの変化があったのか、高縄山上に立って気分が雄大になったのか、大きく見えるのは私の気の故か。
近いうちあの世で米山先生にお会いしたら、お尋ねしてみましょう。
私 「先生、正友神社の大巧はよもだですか?」
米山「けんにいよ!わりゃめんどいこと言うなや、まあ一杯飲めや」
米山先生なら、こう答えられそうです。
せせらぎの 音も途絶えて 嶺を分け
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