高縄神社は河野一族の氏神でした。大山積神社を祀っています。
神楽殿に、近くの河野小学校の子供達が作った河野道有の人形が飾られていました。
あまりに遠くて気がつかなかったのですが、帰りに見たら旧道脇に「県社高縄神社」の神名石と鳥居がありました。もう一度戻って自転車のメーターで計ったら210メートルありました。この長い参道から推し量っても、さぞ河野一族の加護も厚く社料も広大だったでしょう。
寄付者名石の経緯については、高縄神社の宮司さんから次のように教えて頂きました。
「明治28年高縄神社が県社に昇格したとき、記念に西園寺公望公に神名石の揮毫をお願いした。その謝礼を公は受け取って下さらなかったので、寄付を頂いた形で寄付者名石を残し、それを米山に書いて貰った」
何故西園寺公望公にお願いしたか、何故米山が寄付者名石を書いたかは詳しくは分からないとのことでしたので、以下は例によって私の無責任な推論です。
このとき西園寺公は47才で外務大臣。10才年下に後にベルギー公使をした五代目松山市長の加藤恒忠氏が当時外務省に勤めています。加藤氏は、松山藩の儒学者大原観山の三男。正岡子規の叔父に当たる人で、秋山好古や新田長治郎とも親交が深かった。以上のようなことから考えて、西園寺公との仲を取り持ったのは、加藤恒忠氏ではないでしょうか。米山は県社日尾八幡の宮司であり、儒学者でもありますから、ここに登場しても自然です。
高縄や 河野水軍 偲ぶ春
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