県道松山三坂線207号と平行している旧道を小村町から左へ入ると、一キロ足らずで三島神社(東方)が見えます。
米山が奉献と書いた嗽石の横に、お宮の由来を書いた紹介文と一緒に、米山の紹介がされていました。
偶然見付けたのですが一世代前の神名石がありました。お宮の西側旧街道に面したブロック塀に隠れるように、高さ1メートル70位、30センチ四方に綺麗に四角に面取りされた御影石に「三島神社」とはっきり読み取れる文字が立派な楷書で書かれていました。塀と碑の間に蜘蛛の巣が張っていて、やっと体が入る隙間に体をよじ入れるようにして碑の横の文字も読んだら、明治十五年午年九月武智勘造建立。石工松山丹生谷為二郎と書いていました。 明治15年と言えば、米山が明治13年に例の「鳥舞・魚躍」の注連石で世間の賞賛を浴び、デビューしています。目下売り出し中の米山を差し置いて、晴れの神名石に書を残した主は誰だろう。重信にある三島神社の米山書の神名石と大きさは違いますが、私には非常に良く似た字に見えます。
小春日の 野に米山の 石訪ね
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