神名石は、五メートル近い大きな伊予の青石に、陸軍大将秋山好古が「大宮八幡神社」と楷書で大書していました。その奥の鳥居には、米山の「奉献」の二文字が、飄々と書かれていました。
ここで私の心を捉えたのは、鳥居の横にひっそりと立った、小さな幟立石のかすれた文字です。
以下は判読の部分もありますが、「寄殷 天明三年夜明松東巳二月 丹生屋氏」と読めました。
問題は、天明三年の年号です。1783年、南海道は日本近世史上最悪の飢饉に襲われました。松山地区でも三千人を超す人が餓死し、特にこの付近は一番酷く、地獄図絵の惨状を呈したと言われます。
中日大辞典で調べたところ、「殷」は深い憂いとありました。
この小さな柱に深い憂いを寄せ、餓鬼地獄の中で亡くなった人達への供養をしたのでしょう。
合掌念仏。
冬日差し 寄殷の石碑 文字かすれ
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