この神社は、今回自転車で米山の石文を訪ねる旅の最初に行ったお宮です。漠然と自転車で米山の石文を廻ってみたいと思っていたのですが、そのときはまだ何処に何があるか、何も知りませんでした。
そんなある日、「こんな所にありそうだな」とふらっと入ってこの鳥居の文字「受天・百禄」に出会ったのです。しかし米山の署名は無いし、文字も草書で私には読めない。明治二十二年という記年と「天」「百」の二文字だけは何とか読めたので、早速米山顕彰会の事務局に電話をしました。
「米山の縄張りで、米山が活躍した時期に、なんか訳の分からん字を書いている人が居るけど誰だろう」
程なく返事があって、米山だと分かり文字も教えて貰いました。
それによりインターネットの中国語のホームページで出典を調べたら、この「受天百禄」の字句は、詩経(周の時代。約紀元前11世紀から紀元前2世紀)の中の「天保」という題の詩にありました。「天保」の解説もありました。「為君王祝愿和祈福的詩」つまり、君主の幸福を祈念し祝福する詩という意味です。
更に服部一啓氏の修士論文の中に、丁度この文字を書いたときの日記がありました。
明治23年1月13日
平井谷村和田重太郎来左之通
一 拾五銭
石鳥居筆者謝礼
三熊野神社とは明記されていないけど、そのようです。
なんと米山の受けた「百禄」は拾五銭だったのだ。
春風や 天より受ける 百の禄
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