第五十二代嵯峨天皇の皇子寛王命が、この地の国司として赴任しますが、貞観十八年(87年)にお亡くなりになります。ここに祀られ王塚と呼ばれたお墓が神社の神体になり「墓辺神社」となり、その後「波賀部神社」となりました。
久米郷土誌に記載されている社祠官武智勝の日記によると、米山はこの神名石を書くのに一ヶ月費やしています。米山日誌とも一致するようで、このときの謝礼が記入されていました。
明治21年11月10日 (旧10月11日)
高井大塚武智勝過日神石認方ノ礼ニ来左ノ通
1 フナ 数々 武智勝持参
2 白砂糖半斤入箱
野の風と 主を守るか 宮の森
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