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53-1:大津


東海道を歩く (53-1:大津宿:本陣跡碑) ---




(写真は義仲寺)

いよいよ、「東海道五十三次を歩く・完全踏破の一人旅」も大詰めです!

さあ、最終ゴールの京都・三条大橋まで、あと12キロを残すのみです!!

今日も膝痛は回復しないものの、フェイタスZを貼って、気合いを入れて、草津の宿を出発します。


昨日の続きを歩くため、JR草津駅から石山駅へ向かいます。

石山駅で降りて、ゆっくりと旅の最後の日を噛みしめる様に歩き始めます。

石山駅から暫く歩くと、本多六万石の城下町、膳所(ぜぜ)に入ります。



(膳所城総門跡)

膳所の城下町特有の折れ曲がった道を進みます。



旧街道は、京阪電車の踏切と交差を繰り返しながら、ほぼ並行して大津宿の中心へ向かいます。



膳所(ぜぜ)の城下町を歩いていると、義仲寺(ぎちゅうじ)がありました。

義仲寺の入口で写真を撮ろうとすると、また、カメラのトラブルです!

今度は、”SDカードが一杯です!”

携帯の写真という非常手段はありますが、最後はキチンとした写真を撮りたいです。

SDカードを買おうと、辺りを見回すと、近くに、西武百貨店と大津パルコがありましたが、
まだ開店1時間前です・・・

付近の商店街を歩きながら探すと、フジフィルムの小さな現像店がありました。

聞いた事のないメーカーのSDカードが1種類だけありました。

カードを差し替えてスタートです。

次の旅行では、予備のSDカードを忘れない様にしよう。

DPE店から、再び、義仲寺へ向かい、お寺の中へ入ります。



木曾義仲(きそよしなか)の愛人の巴御前(ともえごぜん)が、義仲を供養したお寺です。

源平の戦いで、源義仲(木曾義仲)は、平家の大軍を破って上洛しますが、都に居座った
ことにより、源頼朝に義経の軍勢を差し向けられ討たれました。

この木曾義仲の墓のそばに、巴御前が草庵を結んだのが義仲寺の始まりだそうでです。

また、義仲寺には、松尾芭蕉の墓がありました。

松尾芭蕉は、大坂で亡くなったあと、その遺言により、遺骸が木曾義仲の墓の隣に葬られた
そうです。
へ〜、知らなかったな〜。

義仲寺から、大津市街地の中心にある大津宿へと向かいます。

現代のビジネス街の中心である県庁所在地の繁華街に宿場町の町並みをそのまま残しています。



こんな繁華街の中に、宿場町の町並みがそのままよく残っているな〜、と不思議な感じがします。



旧街道沿いに、大津事件の碑がありました。





大津事件は、明治24年に、日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ2世が、警備にあたって
いた警察官に突然斬りつけられ負傷した、暗殺未遂事件です。

旧街道の突き当たりが、大津宿の中心である札の辻で、東海道と北国海道の分岐点です。

突き当たりが、京阪電車の通りですので、この札の辻を、直角に左に曲がると、大津本陣跡の碑があります。





札の辻を直角に曲がった少し先を右に入ったところに、膳所藩のお抱え御用料亭の老舗の
阪本屋があります。



大津の名物は、この阪本屋で売っている琵琶湖の鮒(ふな)寿司です。(3,150円)



鮒ずしは保存食で、ご飯で長い間漬け込んだ魚の漬物で、ドロドロになったご飯の方を捨てて、
魚の方を食べます。

でも、匂いと酸味が強烈なので、人によって好き嫌いが激しいらしいですが、やはり、
江戸時代の保存食なのでしょう、現代人の私はそれほど美味しくは感じませんでした。

少し歩くと、旧街道は、大津宿を抜け、蝉丸神社下社の前を過ぎて、国道1号と合流します。







最後の難関、逢坂(おうさか)峠へ向かいます。





「53:大津宿」



写真の瀬田の唐橋は、一人旅の時は工事中で、橋の欄干は見えませんでしたが、バス旅行の
時は修理が終了していて写真の様にバスの車窓から真新しい姿の欄干を見ることが出来ました。

大津宿は、県庁所在地のビジネス街の中心にあるにも拘わらず、宿場町の町並みをそのまま
残しています。

こんな繁華街の中に、よく残っているな〜、感心します。









大津宿を抜けて、逢坂に差し掛かかります。

江戸時代からの老舗の鰻屋「かねよ」の反対側の石段を登ると下の写真の草津宿から数えて
3つ目の蝉丸神社がありました。



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