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40-1:有松 |
東海道を歩く (40-1:鳴海宿:有松) ---
(写真は、有松宿の井桁屋)
有松宿は、岡崎宿と鳴海宿の中間に位置する間宿です。
広重も描いた”有松絞り”の問屋の風格のある町並みが続きます。
江戸時代には、絞りの問屋が集まり、有松絞りは、有松宿
の名産だったそうで、今でも、有松絞りを売る店が点在して
います。
色鮮やかな有松絞りは、持ち運びに便利な東海道のお土産として、旅人の間で大評判となり、
有松・鳴海を訪れる女性たちは、こぞってショッピングを楽しんだそうです。
(有松絞り:土山宿伝馬館展示品)
かって「有松・鳴海絞り」の店が並んでいた道筋には、今も、往時をしのばせる町家が軒を
連ねています。
当時の風情を色濃く残す宿場町で、まるでタイムスリップしたかの様な錯覚に陥ります。
冒頭の写真の井桁屋を始めとして、連子格子、なまこ壁、うだつ等、当時の様式を残す
十数軒の建物が軒を連ねます。
また、有松のもう一つの名物である「からくり人形」を格納する蔵もありました。
今、「敵討(かたきうち)」(吉村昭:新潮文庫400円)を読んでいます。
主人公は、惨殺された父母の敵を討つため、明治8年の8月下旬に、佐賀の秋月藩を
出立します。
小倉から船で大坂に着き、そこから東海道を歩いて、10月初旬に東京に着きます。
九州と関西の間は、瀬戸内海で海が穏やかだから、昔から、やはり船旅だったんでしょうね。
でも、明治になっても、大坂から東京までは、東海道五十三次を、江戸時代と同じ様に歩いていたんですね!
そう、未だ、鉄道も無かった訳ですからね・・・
明治13年、主人公は、東京で仇を討ち、めでたく本懐を遂げ、帰藩を許され、故郷の皆から
祝福を受けるハズだったのですが・・・
しかし、この時点では、藩は廃止され県となっており、「仇討ち禁止令」が出ていて、主人公は、
殺人罪として死刑を求刑されます!
(もっとも、この仇討ち禁止令は、一般には知られておらず、法律関係者のみが承知していた
のだそうです。)
この小説は、裁判記録の写しとして残っていた「最後の仇打ち」の実話に基づくもので、
藤原竜也主演のテレ朝・ドラマ「遺恨あり」でもやっていました。
明治になっても、東海道の旅行が、江戸時代と何も変わらなかったというのが、私にとって
新鮮な驚きでした!
東海道五十三次や宿場町が、更に、身近かに感じられます!
有松宿を抜けて、約2キロ西の鳴海宿へ向かいます。
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バスで行く東海道「第8回-2」(有松・鳴海宿) 2012.11.3
「40:有松・鳴海宿」
・桶狭間古戦場跡
小さいけれども綺麗に整備された公園です。1560年、今川義元が率いる大軍2万5千に対し、
約十分の一の軍勢で挑んだ織田信長が、天候の急変を機に、この桶狭間で休息していた
今川軍に奇襲をかけ、今川義元はあっけなく戦死し、織田軍が圧勝します。
(今川義元の墓)
この古戦場跡公園の向いの高徳院の階段を登ります。
境内には、写真の今川軍の本陣跡の石碑が建っています。
宅地開発が進んでいて、この辺り一帯が平地に見えたので、山の急斜面の下の桶狭間を
織田軍が急襲した、と言う話も、ピンときませんでした。
でも、この高徳院の境内から見渡すと、確かに、古戦場跡公園が、周りの岡に囲まれた窪地に
なっている感じで、織田信長が、この古戦場跡公園で休息していた今川軍に、奇襲をかけたときの
イメージが湧いてきました!
・有松の町並み
広重も描いた江戸時代末期の土蔵造りの家屋が10数軒残っていて、市の町並み保存地区に
なっています。
江戸時代には、絞りの問屋が集まり、有松絞りは、有松宿の名産だったそうで、今でも、
有松絞りを売る店が点在しています。
色鮮やかな有松絞りは、持ち運びに便利な東海道のお土産として、旅人の間で大評判となり、
有松・鳴海を訪れる女性たちは、こぞってショッピングを楽しんだそうです。
(井桁屋)
(絞りのお店)
・有松・鳴海 紋会館(資料館300円)
有松絞りの歴史、工程、技法を実演を交えて分かり易く紹介しています。
お土産に、上の写真の有松絞りを買いました。(1,050円)
バスは、有松宿(知立と鳴海との間の宿)から鳴海宿へ向かいます。
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