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38:岡崎


東海道を歩く(38:岡崎宿)15km



(写真は、八丁味噌蔵)

徳川家康の生誕地岡崎は戦災を受け、本陣跡や問屋場跡に標柱がある程度で、
遺構らしきものは何も残っていません。




岡崎宿の入口には、防衛のため形成された道の”二十七曲り”と呼ばれる枡形(ますがた)に
ついての表示柱がありました。

表示柱は、曲がりくねった地図の表示ではなくて、次の曲がり角までのメートル数が次々に
書かれていて、これをたどれば良いようになっています。




枡形(ますがた)は、城下町や宿場町の出入口にあり、敵が真っ直ぐに進めない様に
わざと道を左右にずらしたものです。(下の写真は岡崎信用金庫です。)



繁華街の中心にある岡崎公園の中の岡崎城へ向かいます。

家康が生まれ育った岡崎城は、天守閣が再現されています。



岡崎城内に、八丁味噌蔵への案内板が出ていたので、これに従い、岡崎城の綺麗な石垣の
お堀端を抜けて、八丁味噌の里の味噌蔵へ向かいます。



冒頭の写真の様な八丁味噌の蔵が並んでいました。

岡崎城から八丁(870m)の距離なのでこの名前が付いたそうです。

江戸時代から続く「カクキュー八丁味噌」の蔵と工場を見に行きます。



ここの味噌蔵を舞台にしたNHK朝の連続ドラマの「純情きらり」の宮崎あおい等の手形の碑が
点在していました。







八丁味噌は、丸大豆と塩のみを使い、3年間じっくりと熟成させて造るので、長期間保存が利き、
寒暖にも変質せず携帯にも便利なことから重宝されたそうです。

徳川家康もこの八丁味噌を焼いて食べるのを好んだそうです。

お昼は、味噌カツ丼(900円)を食べます。

東京のカツ丼を食べ慣れていると、タレが少ししつこく感じます。文化の違いでしょうか。



岡崎宿を抜けると、矢作川橋跡がありました。

岡崎城の西を流れる矢作(やはぎ)川は、当時、水路による物資輸送で、重要な役割を果たし、
これにより、岡崎は、城下町、宿場町、湊町として発展しました。

旧矢作川橋は、長さ374メートルと、東海道で一番長い橋だったそうです。

広重も”岡崎城と矢作川”を描いています。

矢作川橋は、日吉丸(豊臣秀吉)が蜂須賀小六に出会った橋として有名です。



豊臣秀吉は、蜂須賀小六のお陰で、一夜城を築け、とんとん拍子の出世をします。

そう言えば、土産に買った八丁味噌にも、橋の上での二人の出会いの図が描かれていました。



(京の五条大橋の上の牛若丸と弁慶ではありませんよ・・・念のため)

写真の八丁味噌は、田楽みそとして最適ですが、野菜スティクに付けて食べたらとても
美味しかったですよ。


次の知立宿を目指します。

旧東海道は、やがて国道一号と合流、トラックの排気ガスを我慢しながら、約3キロを
ひたすら歩くと、名鉄宇頭駅の先で国道一号から離れ、再び松並木が点在する旧東海道へ
入ります。



2キロほど進むと、旧東海道の右手に「雲竜の松」で有名な永安寺がありました。



境内の雲竜の松の幹が、地を這う様に四方に伸びてます。



うねる様にしてして横へと伸びた枝は、まるで複数の竜が天に昇るという感じで、力強い
屏風絵を見る様な迫力があります。
う〜ん! まるで生き物の様な見事な松です!



永安寺を出ると、直ぐに、衣浦豊田道路の陸橋があり、これを超えると、道の所々に松並木が
点在する様になります。



ここから数キロ行くと、道の左右両側に一里塚が残っている来迎寺一里塚ががあります。



更に、1キロ程進むと、もう次の知立宿の入口である知立の松並木が見えます。

岡崎宿から知立宿までは、約15キロと、かなりの長丁場です。



バスで行く東海道「第7回-4」(藤川宿〜岡崎宿) 2012.10


「38:岡崎宿」


次の浮世絵は、矢作川(やはぎがわ)の西岸から、対岸の岡崎城を臨む図です。

橋を渡るのは大名行列です。



旧東海道沿いの大平一里塚から、少し右に入ると、写真の大岡越前守の屋敷跡が
あります。



”桜吹雪の刺青”で有名な”遠山の金さん”の江戸・北町奉行
に対し、大岡越前守は、”大岡裁き”で有名な江戸・南町奉行
です。

しかし、大岡越前守の屋敷が、江戸ではなく、何故、こんな所に?

もともと紀州藩士であった大岡越前守忠相は、紀州藩主・吉宗が将軍になったのに
伴って、江戸へ行き旗本となります。

南町奉行として手腕をふるい、吉宗を支えた功績により、72歳の時に1万石の
大名となり、故郷のここ三河国の西大平藩の藩主となったそうです。
ふ〜ん、そういう事か!

屋敷跡は写真の門と塀のみで、塀の中は公園になっています。

ちなみに、南町奉行(大岡越前守)のあったJR有楽町付近の遺構は、現在、
有楽町イントシアに移設されているそうです。

また、北町奉行(遠山の金さん)のあった東京駅八重洲北口の遺構は、現在、
丸の内トラストタワー周辺に移設されているそうです。


お昼御飯は、市の中心部からバスで約15分の真福寺の竹膳料理です。



写真の様に、タケノコの刺身、てんぷら、田楽、煮つけ、酢の物、吸い物と
タケノコずくしのフルコースです。
その上、お膳、器、箸なども全てが竹細工と徹底しています。

タケノコは柔らかくて食べやすく、大満足!

1590年に岡崎城に入城した田中吉政は、10年かけて城下町を整備し、防衛のために
街道を27か所も屈折させる「二十七曲り」を作りました。



岡崎宿の町中に入ると写真の冠木門があり、ここが二十七曲りのスタート地点です。

岡崎城の天守閣(200円)の2〜4階は資料館です。

岡崎城の天守閣は、何と!明治6年まで現存していたのですが、残念ながら
廃城令により取り壊されてしまいました!
もったいない!

明治政府は、よほど徳川憎し、だったんですね〜。





徳川家康は、岡崎城の城内で生まれましたが、以降、織田信秀、更には今川義元の
人質として他国で過ごしました。

しかし、今川義元が桶狭間の合戦で戦死したことにより、19歳で人質から解放され、
以来、ここ岡崎城を拠点に天下統一の基礎を固めました。

下の写真は、家康誕生のおりの”えな(胎盤)を埋めた「えな塚」と、家康が産湯に
使用した井戸水の「産湯の井戸」です。





下の写真は、家康公の人形が能を舞う「からくり時計塔」です。





岡崎城では、コスプレ大会が開催されていて、写真の様に着飾った若者で
大賑わいでした。



1782年創業の備前屋では、岡崎名物の次写真の「あわ雪」(525円)を売っています。



お昼は、「大正庵釜春」で八丁味噌煮込みうどんでした。

見かけより薄味で、麺はコシがあるというより固い感じでした。(1,100円)


37-2:藤川
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