「東海道五十三次(完全踏破の一人旅)」の補足シリーズ「バスで行く東海道」
です。
東海道五十三次・一人旅は、独断で歩いたため、見落とした宿場町の遺構も多々あり、
また、完全踏破の想い出を噛みしめたい、という思いもあり、「バスで巡る東海道五十三次」
ツァーに参加することにしました。
歴史講師の先生が、広重の版画「東海道五十三次」と、現在の風景を対比して説明してくれる
楽しいバスの旅です。
今回は、この第一回のバス旅行で日本橋から神奈川宿です。
東海道五十三次の一人旅で取り上げなかった箇所を、ご紹介しますので、「東海道五十三次
(完全踏破の一人旅)」の下記と併せてご覧下さい。
「0:日本橋」
江戸時代、魚河岸は、未だ築地ではなく日本橋にありました。
下の写真が、日本橋の脇にある魚河岸発祥の地の碑です。
浮世絵には天秤棒を担いで魚を売り歩く魚屋が描かれています。
浮世絵の橋の上は大名行列です。
以下は、私が小学校で教わったこの大名行列の童謡です。
♪お江戸日本橋 七つ立ち〜♪
♪初上り〜 行列揃えて あれわいさのさ♪
♪こちゃ 高輪 夜明けて〜提灯消す〜
こちゃえ こちゃえ♪
九つ→0時 八つ→2時 七つ→4時
六つ→6時 五つ→8時 四つ→10時
(三つから一つは無く九つに戻る)
大名行列は、日本橋を七つ(朝4時)に提灯を点けて出発しますが、高輪まで来たところで、
夜が明けて提灯を消す様子が歌われています。
次の写真の”日本橋”の文字は、徳川慶喜の筆によるものだそうです。
知人が、私の2011.9.13の”複製”の道路元標のブログを見て、道路の中央にある”本物”の
道路元標の写真を、危険を冒して撮って送ってくれました。
上の写真は、京橋の江戸歌舞伎の碑です。
京橋は昭和38年に、京橋川が埋め立てられた際に撤去されましたが、写真の京橋の
擬宝珠(ぎぼし)が残っています。
次の写真は、「西郷・勝会見の地」の碑です。JR田町駅の手前、第一京浜(旧東海道)沿いの
左手の三菱自動車本社前に「西郷・勝会見の地」の碑があります。
官軍の江戸城総攻撃を目前にひかえた1868年)、東征軍参謀・西郷隆盛と、徳川家陸軍総裁・
勝海舟の会談が、ここ田町の薩摩藩邸で行われました。
レリーフは、左が西郷隆盛、右が勝海舟です。
この会見で、江戸城の無血開城が決められたことにちなんで建てられた碑です。
次の写真は、「高輪大木戸跡」です。
第一京浜(旧東海道)のJR田町駅と品川駅の中間くらいの左手に、こんもりとした一里塚の
ようなものが見えて来ます。
江戸全体の治安維持のため、江戸の南の入口として設けられた木戸で「大木戸」と呼ばれ、
当時は、街道の両側に石垣が築かれていましたが、現在は海岸側の石垣のみが残っています。
当時は、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たしていました。
江戸を発つ旅人の見送りは、ここで行われるのが一般的で、茶店が多くあったそうです。