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01:日本橋


東海道を歩く(0:日本橋)8km



(写真は、日本橋の道路元標複製)

今年、完全リタイアしたのを機に、非日常のウォーキングを目指して、東海道53次の完全踏破の
旅に出ることにしました。

私の人生、そもそも、本当は、何がやりたかったんだっけ?

そして、リタイア後を、どういう風に生きていこうか?

一念発起、ここ日本橋から、京都三条大橋まで、東海道53次を歩きながら、
じっくりと考えることにしました。

そんな大風呂敷・・・ 無理かな〜?

ちょっと、夢みたいな・・・

旧東海道に沿って、歴史的な場所・建物等を味わいながら、歩けるところまで
歩いてみたいと思い、日本橋をスタートします。

日本橋→京橋→銀座→新橋→大門→三田→品川

写真下の白い石碑が、日本国の道路元標の複製、そして、写真中央の黒い
細い柱が東京市の道路元標、日本国道路元標複製の左に、日本橋から
主要都市までの距離が書かれた石碑がありました。



これまで、写真の複製の道路元標は見たけど、本物の道路元標がどこにあるか、
分からないままでした。

でも、今回、本物を発見!



本物は橋の上の道路の真ん中にありました!

以前に見たNHKの”ブラたもり”によると、見物人が道路の真ん中へ見に行くと
危険なので、すぐそばの橋の脇に複製を置いたらしいです。

日本橋から品川宿まで約8キロです。

「東海道五十三次(完全踏破の一人旅)」の補足シリーズ「バスで行く東海道」
です。

東海道五十三次・一人旅は、独断で歩いたため、見落とした宿場町の遺構も多々あり、
また、完全踏破の想い出を噛みしめたい、という思いもあり、「バスで巡る東海道五十三次」
ツァーに参加することにしました。

歴史講師の先生が、広重の版画「東海道五十三次」と、現在の風景を対比して説明してくれる
楽しいバスの旅です。

今回は、この第一回のバス旅行で日本橋から神奈川宿です。

東海道五十三次の一人旅で取り上げなかった箇所を、ご紹介しますので、「東海道五十三次
(完全踏破の一人旅)」の下記と併せてご覧下さい。

「0:日本橋」

江戸時代、魚河岸は、未だ築地ではなく日本橋にありました。

下の写真が、日本橋の脇にある魚河岸発祥の地の碑です。



浮世絵には天秤棒を担いで魚を売り歩く魚屋が描かれています。



浮世絵の橋の上は大名行列です。

以下は、私が小学校で教わったこの大名行列の童謡です。

♪お江戸日本橋 七つ立ち〜♪

♪初上り〜 行列揃えて あれわいさのさ♪

♪こちゃ 高輪 夜明けて〜提灯消す〜 

こちゃえ こちゃえ♪

九つ→0時 八つ→2時 七つ→4時

六つ→6時 五つ→8時 四つ→10時

(三つから一つは無く九つに戻る)

大名行列は、日本橋を七つ(朝4時)に提灯を点けて出発しますが、高輪まで来たところで、
夜が明けて提灯を消す様子が歌われています。

次の写真の”日本橋”の文字は、徳川慶喜の筆によるものだそうです。



知人が、私の2011.9.13の”複製”の道路元標のブログを見て、道路の中央にある”本物”の
道路元標の写真を、危険を冒して撮って送ってくれました。






上の写真は、京橋の江戸歌舞伎の碑です。

京橋は昭和38年に、京橋川が埋め立てられた際に撤去されましたが、写真の京橋の
擬宝珠(ぎぼし)が残っています。



次の写真は、「西郷・勝会見の地」の碑です。JR田町駅の手前、第一京浜(旧東海道)沿いの
左手の三菱自動車本社前に「西郷・勝会見の地」の碑があります。



官軍の江戸城総攻撃を目前にひかえた1868年)、東征軍参謀・西郷隆盛と、徳川家陸軍総裁・
勝海舟の会談が、ここ田町の薩摩藩邸で行われました。



レリーフは、左が西郷隆盛、右が勝海舟です。

この会見で、江戸城の無血開城が決められたことにちなんで建てられた碑です。



次の写真は、「高輪大木戸跡」です。

第一京浜(旧東海道)のJR田町駅と品川駅の中間くらいの左手に、こんもりとした一里塚の
ようなものが見えて来ます。

江戸全体の治安維持のため、江戸の南の入口として設けられた木戸で「大木戸」と呼ばれ、
当時は、街道の両側に石垣が築かれていましたが、現在は海岸側の石垣のみが残っています。

当時は、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たしていました。

江戸を発つ旅人の見送りは、ここで行われるのが一般的で、茶店が多くあったそうです。







再び 東海道を歩く(00:日本橋)  2014.1.29


雪で中山道が閉ざされる1〜3月の間は、近場の都内や横浜をウォーキングしています。

でも、単に歩き廻るだけでは物足りなくて、歩いた地域の歴史的な背景や地名の由来なども
知りたくなり、「市中引き回しルートを歩く」ツアー(日本ファミリー旅行)に参加して来ました。

「酒井茂之と巡る歴史ウォーク」(歴史本の著者の案内で江戸の旧跡を訪ねます。)

「第一回:小伝馬町〜芝大門」(6,500円:昼食代含む、更に
 下記「大江戸タイムスリップ・ウォーキング」本プレゼント)

大江戸タイムスリップ・ウォーキング (学びやぶっく)
酒井 茂之
明治書院


「市中引き回しのうえ死罪」となった場合の江戸時代の引き回しコースは下記の2通りがありました。

 @.牢屋敷を出て町人町を通り鈴ヶ森か小塚原で処刑。

 A.全コース(28キロ)を巡って牢屋敷に帰り翌日斬首。

山手線一周34キロよりも短い全引き回しコース28キロを、ツアーは5回に分けて歩きます。



「市中引き回し」の行列は、総勢10人くらい。

先頭は、氏名・年齢・罪状を書いた札を持った雑色(下級役人)2名。

更に、”刺す又”を持った役人2名、馬を引く者2名。

裸馬に乗せられた罪人、その背後から検死役の同心2名。

最後に馬に乗った与力1名、だったそうです。

罪人が、みすぼらしい姿では、罪人に同情が集まり、幕府に反感を抱きかねない、ということから、
小ざっぱりした着物に着替え、中には、薄化粧をほどこされる者もいたそうです。

また、小銭が支給され、途中で酒やタバコを買うことも出来たそうです。


ツアーは10:30に十思公園に集合です。

十思公園は、江戸時代に伝馬町牢屋敷があった場所です。

牢屋敷は2,600坪もの広さがあり、中には、牢屋奉行の屋敷、同心長屋、拷問蔵、処刑場なども
あったそうです。

安政の大獄の際に、吉田松陰や橋本左内らが、この伝馬町牢屋敷で処刑されています。





(公園内の吉田松陰の供養碑)

牢屋敷の仕事は世襲で、トップは石出帯刀(たてわき)。

また、首切り役・山田浅右衛門も、石出帯刀と同様に、名前も代々引き継いだそうです。

1657年の「振袖火事」は、17歳で亡くなった娘が着ていた振り袖を、供養のため火に投じたところ、
折からの強風にあおられ、江戸城の天守閣をはじめ、江戸中が燃え尽き、10万2千人が焼死するという
大惨事になりました。

振袖火事のとき、ここ伝馬町牢屋敷では、迫りくる火を前に、石出が、”戻って来た者については、
罪を減じる様に、命に代えて幕府に働きかけるから必ず戻って来るように!”、と言って囚人達を
解き放ちました。

この言葉に感激した囚人達は、火事が収まってから全員戻って来たそうです。

石出は、幕府に働きかけこの約束を実現します。

十思公園には、江戸時代最初の時の鐘といわれる「石町(こくちょう)時の鐘」があります。



この鐘の聞こえる範囲の家から集金して維持管理していたそうです。

また、ここの鐘の音を合図に処刑が執行されたそうです。



(処刑場跡の地蔵)

ツアーは、十思公園を出て、小伝馬町、堀留町、小舟町と進みます。

小舟町は、この辺りの運河を走る小舟が荷揚げした場所だそうです。

八丁堀は、町奉行の配下である与力、同心、徒士(かち)などの町役人が住んでいたことから、
町役人は「八丁堀の旦那」と呼ばれていました。
しかし、現在は当時の面影のカケラすらありません・・・

八丁堀を抜けて京橋へ向います。

次の写真は京橋の親柱ですが、京橋は京橋川に架けられた橋で、日本橋から東海道を京都に向かう
ときの最初の橋なので、京橋と名付けられたらしいです。



京橋を過ぎて、江戸時代は銀貨の鋳造を行っていたという銀座に入ります。

古地図を見ると、徳川家康のころは、まだ銀座は、京橋川、汐留川、外堀、三十間堀に四方を
囲まれた島です。

銀座を抜けると新橋ですが、新橋は汐留川に架かる橋だったそうで、現在は、汐留川は埋め立てられ、
上は首都高速です。



前の写真は、新橋の親柱ですが、次の写真の向いの交番の屋根も、全く同じ形です!



古地図をみると、新橋の辺りで汐留川がカーブを描いていますが、上を走る首都高速も、古地図と
全く同じ形のカーブを描いています!

京橋川は、水運の便が良かったので、広重の名所江戸百景にも描かれた様に、川の両岸には、
竹、薪、大根などの河岸があったそうです。(下の写真は、大根河岸の碑)



また、この河岸には多くの人が集まったので、中村勘三郎が、ここに猿若中村座の芝居小屋を
立ち上げたのが江戸歌舞伎の始まりだそうです。(下の写真は、江戸歌舞伎発祥の地の碑)



更に、浜松町へ向かって歩きます。 浜松町の大門の交差点に近い路地の奥に、写真の芝大神宮が
あります。



ここの境内で、勧進相撲を興行していた力士と、町火消し「め組」との間で、勧進相撲の入場料を
払う払わないで、喧嘩がおきました。



このとき、め組が半鐘を叩いて喧嘩の応援を集めましたが、火事以外で半鐘を叩いたため処罰されます。

でも、島流しになったのは、町火消しではなくて、半鐘だった、という、いかにも粋なお裁きでした!

この喧嘩は、芝居「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)」として有名になったそうです。



上の写真は、珍しい「め組」の狛犬です。

ツアーは、芝大神宮の更に奥の有名な増上寺で解散です。





(増上寺の和宮像)
増上寺では、「モー娘。」の「ヒット祈願」に遭遇しました。



寒風の中、上の写真の様な舞台衣装で可哀相・・・



上のテレビニュースの画像の左後方で(写っていませんが・・・)、「モー娘。」の祈願の様子を
見物して来ました。
01:品川 へ

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