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甲州街道を歩く (20;駒橋)(山梨県大月市) 1km 2021.4.12




(写真正面の山は、落ち延びる武田勝頼が、家臣の裏切りにより入城を拒否された「岩殿山城」)

 

前回の猿橋宿を抜けて、ひたすら旧甲州街道を歩き続け、山梨中央自動車の所から斜め右の下り坂に入ります。 











ダンプの排ガスから逃れて、長閑な旧甲州街道を進み、相模川水系の熊沢を宮田橋で渡ります。 



上の写真の大西商店の向いに、下の写真の1861年建立の庚申塔がありました。





大月駒橋郵便局を過ぎると緩い上り坂になります。 



「駒橋発電所送水管」を越したら、斜め左の上り坂に入ります。 







JR中央本線を第五甲州街道踏切で横断します。





踏切の先の上り坂を進み国道20号に合流するのと同時に、下の写真の様に、直ぐに、横尾橋バス停の所から斜め右に入ります。



もう、「駒橋宿」に到着です。

「駒橋宿」は、問屋1、旅籠4軒のみの小さな宿場町で、宿場の横を流れる桂川の対岸にある岩殿への渡船場がありました。









宿場町の中ほどに写真の「厄王大権現」(やくおう だいごんげん)があります。







厄王大権現の前のロータリーの芝ざくらが見事です。







厄王大権現の先に、1793年建立の写真の「秋葉山常夜燈」があり、その横に、甲斐地方に特有の「丸石道祖神」が祀られています。

山梨県内には、写真の様な丸石を祀る道祖神が、700ヶ所以上もあるそうです。







宿場町は、一旦、国道20号線に合流します。



国道の右手に、写真の駒橋宿の旅籠「橿(かし)屋」跡があります。







暫くの間、国道20号を進んだ後で、斜め右に入ります。



更に進むと、正面に、かって「岩殿山城」があった「岩殿山」の山容が迫ります。



「岩殿山城」は、武田の家臣の「小山田信茂」(おやまだ のぶしげ)(NHK真田丸では温水洋一)の居城でした。    

   

1582年、織田勢が甲斐に侵攻すると、「武田勝頼」(NHK真田丸では平岳大)は、家臣の相次ぐ離反もあり、真田家の信州へ落ち延びようかと思案します。

しかし迷った末に、家臣の「小山田信茂」の居城である堅城で名高い「岩殿山城」に逃げ込む決心をします。

しかし、小山田信茂は、武田勝頼の岩殿山城への入城の直前に、織田家に内通して裏切り、入城を拒否します。

裏切られた武田勝頼は、笹子峠で立ち往生してしまいます。

勝頼は、手勢を減らしながらも、何とか信濃の真田領を目指して天目山の道へ逃げようとしますが、その途中で,織田勢に追い詰められ自害しました。

そして、裏切った小山田信茂を待ち受けていたのは、織田方の意外な対応でした?

武田の他の家臣たちは、織田方からの強い調略の働きかけにより裏切ったのに対し、小山田信茂は、織田方からの働きかけがなかったのに、自ら武田家を裏切った不忠の家臣だとして斬首を言い渡されました!

小山田信茂は、主君を裏切って上手く織田方に寝がえり、褒美を貰おうとニンマリしていたでしょうに、褒美どころか、打ち首とは予想外の展開でした。

でも、筋論だと織田方の対応の方が正論かも知れませんね。



旧甲州街道は、上の写真の国道139号線高架をくぐって、JR中央本線に沿って進み、やがて、さつき商店街通り入ります。









さつき商店街通りを抜けて、上の写真のJR中央本線大月駅を過ぎると、大月二丁目交差点で国道20号に合流します。











国道20号に合流するこの辺りが大月宿の東口です。

大月宿に到着です。

駒橋宿から大月宿までは僅か1キロ余りです。

 



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