( 写真は、「出雲崎代官所」の入口で、立ち上がって観光客を迎える「代官」。)
新潟県の「出雲崎」(いずもざき)は、佐渡ヶ島から、海を隔て50キロ余り、
「佐渡金山」から産出される「金」の陸揚げ港でした。
このため、幕府は、佐渡と同様に、「出雲崎」を、幕府直轄地(7万石)にして
「出雲崎代官所」を置きました。
また、出雲崎は、北国街道の宿場町でもあり、更に、北前船の発着の港でも
あったので、大いに繁栄しました。
我々のバス旅行は、道の駅の「越後出雲崎・天領の里」で下車して、「天領
出雲崎・時代館」に入ります。( 500円)
入口では、「出雲崎代官所」のロボットのお代官様が立ち上がって、我々を
迎えてくれます。
出雲崎代官所の最初の代官の高田小次郎は、当時、出雲崎では民衆の力が
強かったので、「橘屋」を名主にして、強い民衆を治めようとしました。
そして、幕末の最後の代官は、代官所が官軍の襲撃を受けたとき、一切の
記録を焼き捨てて、新潟方面へ敗走したそうです。
時代館の館内には、出雲崎の往時の町並みが再現されており、また、佐渡
への航行に使われた御奉行船の大型模型など、当時の様子が展示されて
います。
(出雲崎の宿場町の入口の番人)
(古道具屋)
(将軍名代の巡見使が、出雲崎から佐渡へ渡航する際の行列)
また、時代館の隣は、「出雲崎石油記念館」(共通入場券)で、日本で初めて
石油採掘をした出雲崎の石油に関する資料等を展示しています。
石油記念館の道路向いには、「石油産業発祥地記念公園」があります。
出雲崎では、江戸時代から、石油が湧出することは知られていましたが、
明治維新になって石油ランプの時代になると、急速に石油の需要が拡大
しました。
この波に乗って、出雲崎の海岸を埋め立てて、石油の機械掘りをしましたが、
そのときの”石油を掘っていた櫓”の跡が下の写真だそうです。
時代館を出て、「妻入りの街並み」を散策します。
出雲崎の町並みは、”鰻の寝所”の様に、間口が狭く奥行きの長い「妻入り」
の構造で、これは、江戸時代に、”出雲崎が越後一の人口密度”を誇った
繁栄の名残りなのです。
今も、約4キロにわたる「妻入り」の町並みが残っており、見応えがあります。
上の写真は、「旧新津邸」で、出雲崎出身の実業家である新津恒吉が所有
していた邸宅です。
ちなみに、新津恒吉は、「昭和シェル石油」の前身の新津石油の創業者です。
上下の写真は、観光案内所の「妻入り会館」で、ボランティアのおじさんが、
出雲崎の観光スポットについて解説してくれます。
妻入りの街並のなかほどに「芭蕉園」があります。
「芭蕉園」には、写真の「芭蕉像」があり、その奥に、芭蕉の「銀河ノ序」(注)
の全文が刻まれている碑があります。
(注)「銀河ノ序」
芭蕉門下の許六が、芭蕉門下生の句を集めた俳文集「本朝文選」(風俗文選)
には、出雲崎に深い感懐を抱いて書いたという芭蕉の序文(銀河の序)が
掲載されています。
奥の細道の本文中には、芭蕉は、越後路について1行も書いていないものの、越後路で下記の2句を詠んでいます。
”荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)”(芭蕉)
(眼前の日本海には荒波が立ち騒ぎ、その彼方には幾多の悲しい歴史を
秘めた佐渡島があり、仰ぎ見ると、七夕の夜空には、年に一度、牽牛と織女が
出逢うという天の川が横たわっている。)
佐渡は、古くからの流刑地で、順徳院、日蓮などが罪人として島に流されて
います。
”文月(ふみづき)や 六日も常の 夜には似ず”(芭蕉)
(いよいよ明日は牽牛と織女の2星が会う七夕だと思うと、今宵も、普段とは
違って、華やいだ気分に感じられるなあ。 )
この芭蕉園の斜め向かいの家が、芭蕉が宿泊したと言われている「大崎屋」
の跡らしいのですが、何の表示もありません・・・
また、出雲崎は、「良寛」(りょうかん)の生誕の地でもあります。
良寛は、芭蕉よりも百年あまり後の人ですが、歌を詠み、書をしたため、
一生清らかに暮らした和尚として有名です。
「良寛」は、ここは出雲崎の名主の「橘屋」の長男として生まれました。
「橘屋」は、出雲崎の初代代官・高田小次郎が、名主に指名したほどの
名家でした。
上の写真は、その「橘屋」の屋敷跡で、現在は、写真の「良寛堂」が
建っており、そこに、佐渡を見つめる良寛の銅像も建っています。
我々のバス旅行は、「出雲崎」の妻入りの街並みを抜けて、隣町の「柏崎」へ
向かいます。
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