(写真は、登米の町中の武家屋敷跡)
前回の「日和山」に続き、今回は「登米(とめ)」です。
芭蕉は、ここ登米で1泊してかから、奥の細道のハイライトである平泉を目指しました。
写真は、登米の中心部の入口にある北上川の堤防に建つ「芭蕉 一宿(いっしゅく)」の跡の碑です。
我々のバス旅行も、登米市の中心部に入ります。
登米は、武家屋敷が残る雰囲気のある鄙びた小さな町並みです。
写真は、「教育資料館」(国重文)で、明治21年に建てられた洋風建築の校舎です。
(旧 登米高等尋常小学校)
ギリシャ風の柱頭飾りの技法や、吹き抜け式の玄関、正面2階にバルコニーを
配するなど、ヨーロッパの様々な様式を取り入れています。
上の写真は、和洋折衷建築の「水沢県庁記念館」で、明治5年に水沢県庁舎(注)として建てられ、その後小学校や裁判所として使われました。
特に玄関の切妻は量感溢れる重厚な構えです。
(注)水沢県庁舎:明治2年に、現在の宮城県の北東部に「登米県」が設置され、
ここ登米がその県庁所在地でした。
その後、「登米県」は、明治5年に「水沢県」となり、水沢県の県庁所在地が、明治8年に登米から一関に移るまでの間、ここが水沢県庁舎として使用されました。
ちなみに、ここ「登米」は、正しくは、「登米(とめ)市」の「登米(とよま)町」です。
う〜ん、ややこしい・・・
古来、「登米」の地名の読み方は「とよま」でした。
しかし、明治にここが「登米県」の県庁所在地になったときに、全国の人々が
「登米県」を「とよまけん」と読めず大混乱となったため、仕方なく「とめけん」に
変更したそうです。
そのため、当時からある小学校の読み方は、現在も「とよま町」の「とよま小学校」
のままですが、官庁関連施設である警察署などは、「登米(とめ)警察署」などに
変更されたそうです。
写真は、和洋折衷建築の「警察資料館」で、明治22年に建てられた旧登米警察署の庁舎です。
吹き抜けの玄関や2階のバルコニーなどがモダンな印象です。
写真は、上層武士の武家屋敷を整備した休憩所の「春蘭亭」で、落ち着いた庭園
があり、囲炉裏端の喫茶コーナーでは抹茶も味わえます。
芭蕉は、ここ登米で1泊してかから、奥の細道のハイライトである平泉を目指しました。
しかし、この「バスで行く・奥の細道」をご愛読頂いている皆様には大変申し訳ない
のですが・・・
実は、我々のツアーの15名全員が、これから行く平泉と立石寺は、複数回行った
ことがある、ということで、メンバ−の希望で、奥の細道のハイライトである平泉と
立石寺はスキップすることになりました。
(私の平泉旅行については、2012/8の「白神山地と平泉金色堂」を見てね。)
と言う訳で、次回の「バスで行く・奥の細道」シリーズは、東京から新幹線で山形へ
向かい、山形から、健脚の芭蕉も苦労して歩いたという湯殿山、羽黒山、月山へ
向かいます。
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