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バスで行く「奥の細道」(2:黒羽・雲厳寺)(栃木県)


 

(写真は、「雲厳寺」の吉永小百合)

テレビを見ながら、この「雲厳寺」のブログの原稿を書いていたら、ちょうどJR東日本の
「大人の休日倶楽部」のCMで、吉永小百合の「奥の細道の雲厳寺」をやっていました。

以下は、吉永小百合のCMのナレーションです。

  松尾芭蕉が、奥の細道で最も長く滞在したという栃木・黒羽(くろばね)の地。

  彼がここに留まったのは、降り続いた雨のせいだけではありませんでした。



(黒羽:大人の休日倶楽部CMから)



(雲厳寺:大人の休日倶楽部CMから)



(雲厳寺:大人の休日倶楽部CMから)



(雲厳寺:大人の休日倶楽部CMから)



(雲厳寺:大人の休日倶楽部CMから)


(雲厳寺:大人の休日倶楽部CMから)



(大人の休日倶楽部CMから)


前回ご紹介しました様に、芭蕉は、下野国の黒羽藩・城代家老の家に招かれ、奥の細道の
旅程では最長となる14日間も黒羽に滞在しました。

その黒羽滞在の3日目、芭蕉は「仏頂和尚」(ぶっちょうおしょう)(文末の[注]をご参照)を「雲厳寺」(うんがんじ)に訪ねました。

雲厳寺に向かう芭蕉一行には、若者も加わり、賑やかに談笑しながら進んだので、いつの間にか雲厳寺の麓に近づいていました。

しかし、雲厳寺の麓に着くと、風景は一変し、山は奥深く、ひんやりとした谷道が、清らかな渓流に沿って続きます。

芭蕉が雲巌寺を訪れたのは、雲巌寺の裏山に、芭蕉がどうしても見たかったという、仏頂和尚の庵があったからです。

芭蕉は、仏頂和尚が修行時代に雲巌寺の山中にこもって、「竪横の 五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし 雨なかりせば」と詠い、それを庵の傍らの岩に書き付けた、と聞いていたからです。

上記の「雨さえ降らなければ、庵などいらない」という、庵さえも疎んじる、その仏頂和尚の執着しない生き方が、芭蕉が仏頂和尚を敬慕した理由でした。

仏頂和尚は、芭蕉が雲厳寺を訪れたこのときは不在でしたが、その庵はそのまま残っていました。



我々の「奥の細道」を巡るバス旅行も、黒羽の浄法寺邸跡を出て、約12キロ離れたこのCMの「雲厳寺」へ向かいます。


(バスの中)


雲厳寺に到着した我々は、吉永小百合も渡った、渓流にかかる赤色の反り橋を渡り、山門を目指して石段を登って行きます。





山の奥にひっそりと佇むお寺の前の渓流と、周辺の静けさがマッチしていて、他の寺にはない独特の、身の引き締まる様な雰囲気が漂っています。







拝観料を払って入る、所謂、観光寺院とは異なり、実際に厳しい禅の修行をするための寺、といった感じです。


山門の先は、正面に釈迦堂、獅子王殿が一直線に並ぶ、代表的な伽藍配置になっています。



雲厳寺は北条時宗が建立しましたが、度重なる焼き討ちにあっています。





雲厳寺は、臨済宗の名刹で、禅宗の四大道場の一つです。




仏頂和尚が、かつてここで修行をしたことから、芭蕉も、仏頂和尚仏を偲んで、下記の句を残しており、境内にはその句碑があります。

 ”啄木(きつつき)も  庵はやぶらず  夏木立(なつこだち)”

 (寺をつついて壊してしまうと言われるキツツキも、精進する仏頂和尚には近寄り難かったのだろう、この庵だけは突き破らなかった。)

芭蕉一行が目指した草の庵は、雲巌寺の裏山にありました。




山門まで戻り、その右手の鐘楼前から石段を登って右に歩いていくと、仏頂和尚の庵跡に通じる山道があります。

しかし、現在は、この「仏頂和尚の庵跡」へ通じる道は封鎖されて、立入禁止になっているので、残念ながら見ることは出来ません。


(注)仏頂和尚

  仏頂和尚は、常陸(茨城県)の鹿島根本寺の住職でしたが、当時、鹿島根本寺は、寺領100石の半分の50石を、隣の鹿島神宮に取り上げられていました。

  これを不服とした和尚は、寺社奉行に訴え出ました。

  この裁判のため、仏頂和尚は、江戸に出てきて、1年半ほど、芭蕉の深川の草庵の川向うに仮住まいしていました。

  このときに、芭蕉と仏頂和尚は交流を持ちました。

  芭蕉は、仏頂和尚の仮住まいに、熱心に参禅する日々を送ったそうです。

  この交流を契機にして、芭蕉の作風に「佗」( わび )の色彩が色濃く投影されるようになっていきました。

  訴えから7年後、仏頂和尚は、鹿島神宮との争いに勝訴したのを機に、住職の座を譲り、鹿島根本寺を離れました。



(青春出版社:おくの細道から)