本文へジャンプ
バスで行く「奥の細道」(奥の細道を歩く 00-1:千住)


  

千住大橋を渡り、日光街道の一番最初の宿場だった千住宿に入って行きます。



千住宿に入ると、旧日光街道は、「中央卸売市場・足立市場」のところで、国道4号
(日光街道)と分かれ、右手の細い道を直進して行きます。

千住宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠55の他に、遊女屋が36軒もあり、品川・新宿・板橋と
共に、江戸4宿の一つの歓楽街として大変賑わっていました。

旧日光街道の入口右手には、 芭蕉翁の旅姿像があり、その前には、「日光道中 千住宿」の
石碑が建っています。



「中央卸売市場・足立市場」の前の道は、「ヤッチャ場通り」で、ヤッチャバ場の屋号を示す
”伊勢屋”、”谷塚屋”などの表示が続きます。








更に進むと、左手に「千住宿歴史プチテラス」(貸し出しギャラリー)があり、その門の左脇に
芭蕉句碑がありました。



”鮎の子の しら魚送る 別れ哉 (芭蕉)”

白魚は2月頃に産卵のために隅田川を遡り、若鮎も3月頃にそれを追いかける様に隅田川を
遡ります。

千住まで見送りに来た門弟達を”鮎の子”に、送られる自分を”白魚”に見立てています。

千住宿は、下の写真の様な馬頭観音、八百屋の他、割烹などもあり、雰囲気のある町です。







更に進むと、次頁の写真の様に、信号の手前の右手に「一里塚跡」碑、左手に「高札場跡」碑
が建っていますが、どちらも小さな石碑で、うっかり見落としそうです。

 

この信号の先は、「千住本町」商店街の大きなアーケードがあり繁華街が続きます。



足立都税事務所の直ぐ近くに、下の写真の「金蔵寺」があります。



お寺の門を入ると、左手に次頁の写真の「南無阿弥陀仏」と刻まれた写真の供養塔が
あります。



これは、千住宿の飯盛女を供養したもので、下の石台には、店の名前と遊女の戒名が
刻まれています。

その横の「無縁塔」と刻まれた下の写真の供養塔は、1837年の大飢饉の犠牲者を供養した
ものです。



北千住の町は、遊女屋が36軒もあった名残りでしょうか、表通りの繁華街の人通りも多く、
裏通りに入っても、食堂、居酒屋、バー等がひしめいています。







表通りの商店街の電柱には、写真の様に、”千住宿を通った大名とその家紋”の説明が続き、
シャッターには日光街道の宿場毎の浮世絵が描かれています。

 



旧日光街道を少し進むと、左手に入る細い道の奥の突き当たりに朱塗りの門の寺が見えます。



”赤門寺”として親しまれた「勝専寺」(しょうせんじ)で、朱塗り門の扁額には「三宮神山」と
書かれています。


説明板によれば、勝専寺は、歴代将軍の鷹狩りの際の休息所だったそうで、本堂の本尊の
「千手」観音像が、”千住”の地名の由来らしいです。


勝専寺から商店街に戻り、先に進むと、100円ショップの前に止められたたくさんの自転車の
中に、写真の小さな「本陣跡」碑がありました・・・





商店街を進むと、右手に「千住ほんちょう公園」という小さな公園があり、この公園の入り口に、
高札場が復元されています。



この公園の先の左手に、下の写真の「絵馬屋(吉田屋)」があります。



吉田屋は、江戸時代からの絵馬屋で、現在、手書きの泥絵具で絵馬を作っているのは、
東京でここ1軒だけだそうです。


吉田屋の向かいは、千住宿の雰囲気を残す次頁の写真の「横山家住宅」で、紙問屋として
栄えた旧家です。





吉田屋の斜め向かいは、次頁の写真の「槍かけだんご」で有名な「かどや」です。



お腹が空いたので、名物の「槍かけだんご」を買って、少し戻って、「千住ほんちょう公園」の
ベンチで食べます。



味がしっかりしていて凄く美味しいので、1本90円は安くてお得です。

「かどや」の先にある「名倉医院」は、江戸時代から続く名高い接骨院で、幕末に建てられた
写真の長屋門が残っています。



地元では、子供の躾けに「言うことを聞かないと名倉に連れて行くよ」と言ったとか。

この名倉医院が、千住宿の外れです。

千住宿の外れの名倉医院の前の道は、荒川の土手にぶつかります。



土手に沿って左手に進み、国道4号のガードをくぐって、螺旋階段を登り、土手の上に出て、
「千住新橋」で「荒川」を渡ります。







驚くことに、江戸時代には、この「荒川」はありませんでした?
この「荒川」は、大正になってから、洪水対策として造られた人工の川なのです!

その証拠に、正式名称は「荒”川”」ではなくて、「荒川”放水路”」です。

しかし、この広大な荒川が、大正時代に、手掘りで造られた人工の川だとは、俄かには
信じられません・・・

放水路が完成してから、本来の荒川は隅田川、放水路は荒川と呼ばれる様になりました。



従って、荒川放水路がなかった江戸時代には、 旧日光街道は、上の写真の様に、赤線の
真っ直ぐな道でした。



「荒川」の対岸の土手を下り、首都高・中央環状を左上に見ながら、土手の脇の道を左手に
歩いて行きます。


少し歩くと、上の写真の「善立寺」があり、旧日光街道は、その角を右折、北上して行きます。



すると、左手に、上の写真の「地蔵堂」があり、その前の石柱には、「八彦尊道 是より二丁」
と彫ってあります。

この「地蔵堂」を左に直進する道が「八彦尊道」で、その先に明王院があり、その境内に
「八彦尊」があるということらしいです。



更に進むと、三叉路があり旧日光街道の道標が建っています。





道標に従って旧日光街道を直進すると、東武伊勢崎線・梅島駅のガードを潜り抜けます。

暫く歩くと、左手の道の入口の両側に2本の石碑がありました。

「南無妙法蓮華経」の前頁の石碑と「将軍家 御成橋 御成り道松並木跡」の下の石碑です。



その2本の石碑の間の細い道の先に「国土安穏寺」(こくどあんのんじ)がありました。



立派な仁王門があり、扁額には「天下長久山」とあります。

歴代将軍が、鷹狩や日光参詣の際によく立ち寄ったために、「御成門」が造られたそうです。

説明板によると、この寺は元々は、1410年、日蓮ゆかりの日通聖人が開いた古刹だそうです。



仁王門の裏側には、写真の大きな草鞋がかかっており、門扉は金色の徳川家の葵の紋です。



墓地には、上の写真の可愛らしい「掃除小僧」と「居眠り小僧」の石像がありました。

国土安穏寺を出て、真っ直ぐな旧日光街道をどんどん歩いて行くと、左手に、足立清掃工場
の高い煙突が見えました。



旧日光街道は、その先で右にカーブして、国道4号を突き切って進みます。

その突当りを左折すると、「毛長川」(けなげがわ)に出ました。


道路標識によると、この川が東京都と埼玉県の境で、ここから草加市に入ります。



えぇっ〜、とっくに埼玉県を歩いていると思っていたけど、
未だ東京都だったんだ!足立区は広いんだなあ〜・・・

やがて、右手に「浅間神社」があり、ここでは、冨士請が開かれていたそうで、境内には
写真の富士塚があります。





浅間神社の先には上の写真の「火あぶり地蔵」がありました。

病身の母を家に残し奉公に出た娘が、母の病が重くなったという知らせを聞き、一目会いたい
と思いました。


しかし、奉公の身であるために暇が貰えず、思い余った娘は、家が焼けてしまえば母の許に
帰ることが出来ると、主人の家に火をつけました。


娘は捕らえられ火あぶりの刑に処せられました。

村人は娘を哀れに思い「火あぶり地蔵」を建てたそうです。

草加宿が近いのでしょうか、煎餅屋が目立ち始めます。



やがて、草加宿の入口の分岐点が見えて来ました。

千住宿から草加宿までは、約9キロです。



目次へ戻る