(写真は、胃腸薬「赤玉神教丸」で有名だった「有川家」)
熊本地震の長期化が気持ちを塞いでいます。
暫く街道歩きを自粛するか迷いましたが、家に居ても気が滅入るだけなので、梅雨の長雨、夏の猛暑の時期になる前に何とか京都に到着しようと、中山道歩きを再開することにしました。
早朝に新横浜から新幹線に乗り、前回のゴールである近江鉄道・鳥居本駅へ向かいます。
新横浜(6:46)→(新幹線)→(8:48)米原(9:01)→(近江鉄道)→(9:07)鳥居本
鳥居本(とりいもと)駅で降りて、駅のホームの構造を確認します。
近江鉄道は単線で、鳥居本駅は、駅のホームを挟んで上下の線路が両側にある”島方式”でした。
上の写真の鳥居本の可愛い無人駅舎を出て、いったん宿場の入口まで引き返します。
鳥居本宿から1里(4キロ)の所に、井伊直弼の居城・彦根城があり、鳥居本宿は中山道の旅人だけでなく、彦根城下を行き交う人々でも賑わいました。
また、次の宿場町の高宮宿には、古くから信仰を集めていた多賀大社があり、鳥居本宿は
大社詣での人々でも賑わいました。
「鳥居本」の地名は、昔は多賀大社の大鳥居がここにあり、鳥居本宿が多賀大社の参道の入口だった事に由来するそうです。
鳥居本宿に入ると、街道は直ぐに左に鉤型に折れますが、その角に「有川家」があります。
上の写真は有川家の正面で、冒頭の写真は有川家を側面から撮影したものです。
有川家は、江戸時代から「赤玉神教丸」という胃腸薬を製造販売(1658年創業)しており、現在もそのままの姿で薬の営業をしています。
江戸時代に於ける「赤玉神教丸」の人気は凄く、ここを通る旅人は必ず買い求めたそうです。
ちなみに、富山の薬「赤玉」も、ここが元祖だそうです。
江戸時代には、「有栖川宮家」からも出入りを許されており、「有川家」も「有栖川」から名前をもらったという由緒ある家柄です。
従って、皇女和宮や明治天皇も立ち寄って休息されました。
「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)でも、弥次さん喜多さんが、ここに立ち寄って一句、
”もろもろの 病(やまい)の毒を消すとかや この赤玉の 珊瑚珠(さんごじゅ)の色”
(珊瑚の珠と同じ色のこの赤玉も、もろもろの病の毒を消すそうな。
珊瑚珠には毒を消す力があるとされていました。)
この有川家の左手の細い道を入って行くと、国道8号の向い側に、上の写真の「上品寺」があり、歌舞伎で有名な「法界坊の鐘」が見えます。
この「法界坊の鐘」には、資金集めに協力した遊女らの名前が刻まれていることから、歌舞伎の世界では、法界坊が”遊女との恋に溺れる破戒僧”として登場します。
(歌舞伎「隅田川 続俤(ごにちのおもかげ)」)
しかし、この寺の7代目住職である法界坊は、実際は、江戸で苦労して資金を集め、上品寺の釣鐘を作り、大八車でその釣鐘をここまで運んだ真面目な僧だったそうです。
宿場町を少し進むと、軒下に「合羽」(かっぱ)の看板が下がる上の写真の「木綿屋」があります。
当時、鳥居本宿には、15軒もの合羽屋があり、防水性の高い鳥居本の合羽は、中山道の人気商品だったそうです。
上の写真は、当時のままの合羽の看板を屋根の上に残した建物です。
(本陣跡)
以下は、江戸時代の雰囲気を残す鳥居本宿の町並みです。
上の写真は、街道歩きの人のために新しくできた「鳥居本宿交流館・さんあか」で、
ここでトイレを拝借します。
この交流館の「さんあか」という名称は、多分、鳥居本の「三つの赤の名産」(赤玉神教丸、
柿渋に紅ガラの合羽、スイカ)を指しているのでしょう。
鳥居本宿の町並みを抜けると、直ぐ右手に、下の写真の「左 中山道 右 彦根道」の道標があります。
「彦根道」は、中山道と彦根の城下町を結ぶ脇街道として整備されたそうです。
道標の裏側を覗いてみると、下の写真の様に「文政十丁亥秋建之」とあり、文政十年(1827年)に立てられた道標です。
この「彦根道」は、彦根の城下町に向かう道としての役割の他に、「朝鮮通信使」が通る道でもあったので、「朝鮮人街道」とも呼ばれていたそうです。
(この「彦根道」のここから約1里先にある「彦根城」については、次回、ご報告します。)
ここから先は、街道の左右が田畑の長閑な田舎道になります。
やがて、『小野』の集落に入ると、新幹線の高架が近くなります。
寄り道をして、その高架をくぐって進んでみると八幡神社がありました。
街道に戻ると、間もなく、『小野』の集落の左手の高速道路の脇に「小野小町塚」があります。
絶世の美女と言われた「小野小町」は、下記の百人一首を詠んだことでも有名です。
”花のいろは 移りにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせし間に”
案内板によると、出羽郡の郡司をしていた小野好美は、ここに立ち寄った際に、ここの娘を養女に貰い受けて連れて帰ります。
この娘が「小野小町」だったそうです。
(もっとも、小野小町伝説は日本各地にあるらしいですが。)
小町塚のすぐ後には、上の写真の様な小さな地蔵堂があり、中を覗いてみると、下の写真の「小町地蔵」がありました。
案内板によると、自然石を利用して、十五世紀後半に造られた阿弥陀如来坐像だそうですが、ガラス越しなので、写真の様に阿弥陀様か否かよく分かりません・・・
小町塚から、街道は、新幹線の高架をくぐり、原の集落に入ります。
集落の右手に「原八幡神社」の鳥居があり、鳥居の下に「芭蕉 昼寝塚 祇川 白髪塚」の石碑が建っていました。
奥へ進むと、社殿の脇に、下の2枚の写真の句碑がありました。
”ひるかおに ひるねせうもの とこのやま” (芭蕉)
]
(この芭蕉の句は、彦根・明照寺の住職に宛てたもので、明照寺には昼顔が咲き誇っているだろうから、そこで昼寝をしたいのだが、残念ながら立ち寄れない。
昼寝の「床」とこの近くの「鳥籠山(とこやま)」を掛けています。)
”恥ながら 残す白髪や 秋の風” (祇川居士:芭蕉の門人)
(説明板によると、聖徳太子と守屋との戦い等の将士たちを憐れみ、芭蕉の夏の句に対し秋を詠んだものだそうです。)
原八幡神社を出て、高速道路の出入口の高架下をくぐると、「中山道 原町」の石碑があり、 その横に「五百らかん 七丁余」の石碑がありました。
これは、この奥にある天寧寺の五百羅漢を指しているのだそうです。
「五百らかん」碑の先の高架道路をくぐると、大きな「常夜灯」と「是より多賀みち」などの道標群がありました。
「是より多賀みち」碑の脇の説明が彫られた石碑によると、当時、ここも「多賀大社」へ向かう参道の入口だったそうです。
更に街道を進み、芹川を渡ると、「石清水神社」があり、階段の途中に、写真の「扇塚」があります。
江戸時代、「能楽」の「喜多流」は、彦根藩の手厚い保護を受けていましたが、この家元が、彦根を去り江戸に帰るときに、門人達に愛用の「扇」を与えました。
門人達は、ここに扇を埋めて「扇塚」碑を立てたのだそうです。
この扇塚の先には、上の写真の「鳥籠山(ちょうろうざん)唯称寺」があり、その先で、近江鉄道の踏切を渡ると、もう高宮宿です。
「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、鳥居本宿に長逗留した旅人が、お供を従えて宿場町の外れの辺りを歩いています。
そこへ、この二人の旅人とは馴染みの鳥居本宿の飯盛女が追いかけて来ます。
弥次さん喜多さんは、話を聞きながら、面白がってついて行きます。
旅人「やあ、こんなところ迄、見送りは要らないよ。」
飯盛女「あんたは、私を女房にすると、伊勢神宮の証文に書き込んだよね。」
旅人「ああ、俺は心変わりしないから心配するな。」
飯盛女「だったら、伏見宿の山田屋の馴染みの飯盛女と別れてよ。」
旅人「いやあ〜、あれはただの友達付き合いだよ。」
飯盛女「ねえ、四百文あげるから、鳥居本宿へ戻ってもう一晩泊まってよ。」
旅人「いや、無理、また来るよ。」
飯盛女「また来るといっても、いつのことやら、戻ってよ。」と、旅人の手にすがりつきます。
お供の男「若旦那、これ以上の長逗留はダメです!」と、無理やり引き離して行こうとします。
飯盛女「ダメだというなら、勝手にして!、私はこの荷物を持って鳥居本宿へ戻るから!」
飯盛女は、7貫もある荷物を軽々と担いで、鳥居本宿へ戻って行きます。
旅人・お供の男「待ってくれえ〜!」
弥次さん喜多さんは面白がって見ていました。
鳥居本宿から高宮宿までは、約6キロです。
JR彦根駅前のビジネスホテルでの朝食を済ませ、JR彦根駅から徒歩10分の彦根城へ向かいます。
彦根城は、琵琶湖の東岸の小高い丘(金亀山:こんきやま)に建てられた平山城(ひらやまじろ)です。(別名「金亀城」)
彦根は、琵琶湖の船便が利用でき、中山道と北国街道が合流する交通の要所でした。
大阪城の豊臣秀頼に睨みをきかせるため、徳川家康は、徳川四天王の一人である井伊直政に彦根に築城を命じました。
大坂の陣に備え築城を急ぐため、彦根城の建物や石垣は、関ケ原合戦で敗れた石田三成の佐和山城の他に、大津城や長浜城などから移築しました。
豊臣氏の滅亡のあとは、井伊直政の子の直継が、更に、20年もの歳月をかけてようやく彦根城は完成しました。
その直継による築城は、所謂「天下普請」(手伝い普請)として、12もの大名に割り当てがなされました。
以後、譜代大名である井伊氏14代の居城となり、一度も戦火にさらされる事無く、明治維新まで現存しました。
そして、明治初期の廃城令で、全国の城が次々と取り壊されていく中、大隈重信が明治天皇に強く上奏し、彦根城は奇跡的に破壊を免れました。
そのお蔭で、現在、天守や多聞櫓が国宝に指定されています。
上の写真は、彦根城のお堀ですが、屋形船によるお堀遊覧もあるらしいです。
それにしても、綺麗で、大きくて立派なお堀です!
上の写真は、お堀沿いの「佐和口多聞櫓」(さわぐち たもんやぐら)です。(入場無料)
(多聞櫓内部)
「佐和口多聞櫓」の横の枡形を抜けると、下の写真の平屋の「馬屋」があります。(入場無料)
現存する「馬屋」としては最大規模で、その希少さから重要文化財に指定されています。
なるほど、この様に大きな「馬屋」は初めて見ました!
下の写真の様に、21頭の馬を収容出来る広さです。
「馬屋」の前には、下の写真の「表門橋」(おもてもんばし)があり、ここが彦根城の玄関口(表門)です。
この橋を渡ると、左手が天守閣への上り道で、右手が表御殿の外観を復元したという「彦根城博物館」です。(撮影禁止)
(彦根城・博物館・玄宮園のセット券:1,000円)
「彦根城博物館」には、井伊家の美術工芸品や古文書などの展示があり、また館内の中庭には、大名家の能舞台が復元されています。
(表御殿の外観:博物館のパンフレットから)
(能舞台:博物館のパンフレットから)
表門から、左手の表門参道の緩やかな石段を上って行くと、やがて下の写真の「廊下橋」が見えて来ます。
この「廊下橋」を渡らなければ天守閣へは進めないのですが、戦さのときには、この橋は切り落とされます。
「廊下橋」を中心にして、左右の両端の2階櫓は、”荷物を下げた天秤”に見えるので、「天秤櫓」(てんびんやぐら)と呼ばれています。
(天秤櫓の内部)
(天秤櫓の中から見た廊下橋)
「天秤櫓」の手前の石垣は、ほぼ垂直に作られた「堀切」と呼ばれる石垣です。
上の写真は、「太鼓門櫓」(たいこもんやぐら)で、本丸に続く最後の城門です。
「太鼓門」の名称は、ここに太鼓が置かれていた事に由来するそうです。
ここで、太鼓を打って、登城や緊急事態の合図をしていました。
そして、いよいよ国宝の「天守」です。
下の写真の天守の前の広いスペースが「本丸御殿」跡で、当時、城主はここを住まいとし、政務を執り行っていました。
ヒコニャンの立て看板の横に、あと1時間待てば、ここにヒコニャンが現れると書いてありますが、まあ〜、どうでもいいか・・・、先へ進みましょう。
現在、国宝の城郭は、彦根城以外では、姫路城、松本城、犬山城、松江城のみです。
天守は「3階3重」、つまり”3階建てで、屋根は3重”で、変化に富んだ美しい姿です。
屋根の特徴は、上の写真の赤丸印の部分の「破風」(はふ)にあり、破風の曲線の調和が美しく、「切妻」破風、「入母屋」破風、「唐」破風の3種類の破風を巧みに調和させています。
この天守には、何と!、18個もの「破風」があり、現存する天守の中では最多です!
また、窓は「花頭窓」(かとうまど)で、最上階は「高欄」(こうらん)付きの「廻縁」(まわりえん)を巡らしています。
「花頭窓」とは、お寺でよく見る上部が「梵鐘」の型の窓ですが、実は「梵鐘」ではなくて「炎」の形を模したものです。
「火頭窓」と書いていましたが、火災を想起させる「火」が嫌われて、「花頭窓」と書く様になりました。
石垣は、「牛蒡積」(ごぼうずみ)と呼ばれる自然石を使い、外見は粗雑ですが強固な造りです。
奥へ進んで、横から天守を眺めてみると、上の写真の様に、正面とは異なったふっくらとした表情に変わります。
以下は天守の内部です。
(井伊直弼大老像)
上の写真は、この穴から弓矢や鉄砲を撃っていた「狭間」(さま)です。
彦根城の狭間は「隠し狭間」で外からは見えず、使用するときは、狭間の板を内側から突き破って使用したそうです。
(
(矢狭間)
(鉄砲狭間)
直角に近い急角度の階段を上っていきます。
写真は、武者4人が武器を手に隠れることが出来たという「武者溜り」です。
先程ご紹介した”赤丸印の「破風」”の屋根裏が実は「武者溜り」になっています!
天守からは、眼下に琵琶湖を望み、市内が一望できます。
天守を下りて、下の写真の「西の丸三重櫓」へ向かいます。
以下の写真は、「西の丸三重櫓」の内部です。
「西の丸三重櫓」から、玄関口(表門)へ戻り、お城の周囲の長い塀を眺めながら「玄宮園」(げんきゅうえん)へ向かいます。
「玄宮園」は、井伊家の下屋敷で、回遊式の大名庭園です。
「玄宮園」の名称は、唐の玄宗皇帝の離宮になぞらえて造られた庭園であることに由来します。
玄宮園の庭から見上げると、彦根城の天守が見えます。
「玄宮園」の隣りは、幕末の大老・井伊直弼が生まれた「楽々園」(らくらくえん)で、枯山水のような庭園です。
彦根城をあとにして、西の方角へ歩いてみると、下の写真の「夢京橋キャッスルロード」がありました。
白壁と黒格子で、彦根城の城下町をイメージした、土産物屋や食堂街です。
|
|