(写真は、薩摩街道沿いの「松崎宿」の旅籠「油屋」)
先月、福岡在住の知人に久し振りに会うために、福岡のホテルに2泊したときの話の続きです。
中州の歓楽街で飲み明かした翌朝に、福岡のホテルから薩摩街道の「松崎宿」(福岡県小郡市)
へ行ってみました。
博多駅から、鹿児島本線に乗って、基山(きやま)駅で下車、そこから甘木鉄道に乗り換えて、
松崎駅で下車します。
JR博多駅 → (鹿児島本線) → 基山駅 → (甘木鉄道) → 松崎駅
(博多駅)
(基山駅)
江戸時代の「松崎宿」は、薩摩街道沿いの宿場町として大変栄えました。
宿場内には、現在でも、「旅籠・油屋」や、宿場の入口に位置する「構口(かまえぐち)」と
「枡形」など、当時の面影を残す遺構が残っています。
甘木鉄道の松崎駅で下車します。
松崎駅前から、宿場町だった「松崎町」の中心部を目指して歩いて行きます。
松崎町の小道に入ると、上の写真の「北構口」(きたかまえぐち)跡がありました。
「北構口」は、宿場の入口にある、高さ2メートル、縦横4メートルの石塁です。
説明板によると、江戸時代には、この石塁の上に、物見櫓を備えた構口(かまえぐち)を設け、
番士が宿場への出入監視と警備にあたっていたそうです。
松崎宿は、ここ久留米藩の領内では一番北にあり、隣国の筑前国への出入口だったので、
重視されていたようです。
北構口を抜けると、すぐに、「枡形」と呼ばれる道の構造が残っています。
枡形は、下の写真の様に、道をわざと直角に曲げ、敵が侵入してきたときに、容易に宿場内を
通り抜けられないようにしたものです。
枡形の角に、上の写真の松崎宿歴史資料館がありましたが、残念ながら閉館中でした。
枡形を抜けて、県道に出ると、直ぐに、下の写真の「旅籠 油屋」がありました。
中に入ると、ボランティアのおばさんが詳しく丁寧に説明してくれました。
油屋は、江戸時代後期に建てられた大型の旅籠建築で、上の写真の右手が「主屋」、
左手の門が「座敷」への入口です。
「主屋」には一般の旅人を、「座敷」は武士などを泊めていたそうです。
街道歩きで、多くの旅籠を見て来ましたが、油屋の様に、武士と一般人の入口が別々の旅籠は
初めて見ました。
上の写真が、座敷へ入る武士の入口の門で、下の写真が武士が宿泊する1階の座敷ですが、
立派な欄間が付いています。
下の写真が、一般の旅人が宿泊する主屋の2階の相部屋です。
上の写真は、板の間の和釘です。
油屋を出て、松崎宿を歩いて行くと、かなり朽ちているものの、旅籠建築の雰囲気を残す
上の写真の「旅籠・鶴小屋」が残っていました。
また、上の写真の敷地には、藩主が休憩に使用したという「松崎宿本陣(お茶屋)」の説明板が
立っていました。
更に、宿場町の各町内には、上の写真の様な商売繁盛の恵比寿様が祀られています。
薩摩街道沿いの上の写真の「桜の馬場」の先には、下の写真の「松崎城」跡があります。
松崎城跡は、現在は、下の写真の三井高校になっています。
松崎の町は、僅かに17年の間だけ城下町でした。
1668年、久留米藩の初代藩主の有馬豊氏の外孫の豊範に1万石の領地が与えらました。
これにより、松崎の町に、久留米藩の支藩の「松崎藩」が置かれました。
現在、松崎宿に残る馬場や枡形(ますがた)は、このときの城下町の名残りです。
しかし、17年後、豊範の「松崎藩」は、御家騒動が原因で改易となり、領地は久留米藩に
還付されました。
松崎宿の南の端まで歩いて来たら、写真の「南構口」(みなみかまえくち)がありました。
松崎宿は、ここで終わりです。
旧宿場「松崎」の町を出て、甘木鉄道の線路を越えて、松崎駅の北側にある「霊鷲寺」
(りょうじゅうじ)へ歩いて行きます。
(松崎宿から徒歩約20分)
「霊鷲寺」は、勅願寺(注)という格式の高い寺院であるため、参勤交代のとき薩摩街道を通る
諸大名も、この寺院の前では籠や馬から下り、拝礼してから通過したといわれています。
(注)勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇の発願により、国家鎮護などを祈願して創建された寺
のことで、勅願寺になれば寺領が得られた。
(境内にある久留米藩の家老だった稲次因幡守正誠の墓)