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52-2:鵜沼


早朝の犬山城の見学を終わり、名鉄・犬山遊園駅から乗車して、昨日のゴール地点である名鉄・鵜沼宿駅へ戻ります。

鵜沼(うぬま)宿の入口の大安寺川に掛かる大安寺橋を渡ります。

大安寺橋の脇には、常夜灯があり趣きがあります。



また、橋の先の柳の木にも趣きがあります。





また、橋の脇には、
栄泉の浮世絵「木曾海道69次(鵜沼)」のレリーフもあります。



犬山城から木曽川越しに対岸の鵜沼宿の眺めを描いた浮世絵です。

大安寺橋の先の左手には、写真の「
安積門(あずみもん)」があります。



説明板によれば、

これは、大垣城の本丸の表口に建てられていた鉄門(くろがねもん)で、明治九年に安積家の自邸の門として、払い下げられた後、 各務原市へ寄付され、平成21年にここに移築されたとのことです。



この門の特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗り籠めている点で、これは、火矢による攻撃から門を守るためだそうです。

その先には、写真の大きくて立派な「菊川酒造本蔵」(有形文化財)の建物があります。



その斜め向かいは、旅籠屋を修復工事した「
鵜沼宿 町屋館」(有形文化財)の真新しい建物があります。



中に入ると、ボランティアのオジサンが丁寧に説明してくれます。














(偽官軍の汚名を着せられ斬首された「赤報隊の印鑑」)

鵜沼宿町屋館を出ると、その横に「
鵜沼宿脇本陣」が平成22年に復元されて建っています。





中に入ると、やる気に溢れたオジサンが、興味深い話しを色々としてくれます。

それによると、この建物は、各務原(かかみがはら)市が、脇本陣坂井家の間取図を基に復元工事をしたのだそうです。









また、この脇本陣の入口の前に
三基の芭蕉句碑がありますが、これは、松尾芭蕉がここに何度か宿泊したからだそうです。



 ”汲溜の 水泡たつや 蝉の声”



 
”ふく志るも 喰えは喰せよ きく之酒”




 ”おくられつ 送りつ果ては 木曾の秋”

更に、このオジサンが、真真偽の程は定かではないがと前置きして説明してくれたのが、下の写真の「楠の句碑」です。



この木は、1688年、芭蕉が菊酒の宴に招待されここを訪れた際に、主人の求めに応じて、楠の化石に、芭蕉本人が、即興の句 

”ふく志るも 喰えは喰せよ きく之酒”

を彫ったそうです。

”どんどん写真を撮って、どんどんブログにアップして情報発信して下さいね。”

と、説明は、上段の間の説明から、雪隠の間の逸話にまで及びます。


(部屋数が15もある座敷)


(上段の間の脇の2畳もある畳敷きのトイレ)


(警護の侍用のトイレ)


(土間)

脇本陣を出ると、その横に、尾張二ノ宮神社へ上がる急な石段があります。





神社は、何と!、円墳の上に鎮座しているので、
神社の石垣には、横穴式石室を残しています。





尾張二ノ宮神社の急な石段を下り、鵜沼宿を抜けて、中山道を進みます。




鵜沼宿を抜けて、次の加納宿へ向かいます。

鵜沼宿から加納宿までの17キロは、案内書にも、「主に国道沿いの殺伐とした風景が中心で、中山道歩きの中で、最も見るべきものが無い」区間とあります・・・

鵜沼宿を抜けて暫く歩くと、空安寺という大きなお寺の前に、県下最大の円形古墳だという「衣裳塚(いしょうづか)古墳」がありました。





古墳から先は、暫くは快適な郊外の住宅地の中を歩いて行きます。



途中の津島神社の境内で一休みしてから、更に進んでゆくと、中山道は国道21号と合流し、まもなくJR高山線を陸橋で越えます。







身体の直ぐ横を突っ走るダンプの風圧に耐えながら、歩道の無い単調な道を延々と歩いてゆきます・・・









やがて、右手に川崎重工の工場を見ながら、名鉄の線路を陸橋で越えます。





更に、国道21号を進んでゆくと、右・各務原市街の道路標識があり、ここからようやく国道21号を離れて、斜め右手の車の少ない脇道へ入ってゆきます。



脇道に入ると直ぐに、「六軒一里塚跡」の標柱がありました。



更に歩いて、神明神社の前を過ぎ、暫く
各務原(かかみがはら)の市街地を歩いて行きます。







まもなく、右手に各務原市役所があり、その先は、非常に広くてきれいな市民公園だったので、ここで一休みします。







一休みして、少し元気がでたところで、市民公園の先にある境川に掛かる那加橋を渡ります。





暫く歩いてゆくと、道がY字に分かれるので、右手の方へ入ってゆき、日吉神社の前を過ぎると、「新加納の一里塚」碑がありました。











一里塚跡碑の近くに、「
間(あい)の宿 新加納」の説明板がありました。

それによると、加納宿と鵜沼宿の間は17キロと長いので、その中間の新加納に「間(あい)の宿」を置いたそうです。



やがて、中山道は、広々とした田園風景になり、遠くの山の頂上には岐阜城が見えます!



そうだ!、せっかくだから、岐阜城にも寄り道してみようかなあ。



やがて、住宅街に入り、暫くの間、古い町並みを歩いて行くと、「切通」の説明板と、「切通し陣屋跡」の説明碑がありました。











それによると、「切通」は、古来、東西交通の要路にあたり、 江戸初期に中山道が開通するや、立場(休憩所)として、茶屋・菓子屋・履物屋等が設けられ、旅人の通行で賑いを見せ、各地の文物が伝来したそうです。

切通の説明板の先には、 伊豆神社と馬頭観音があります。



更に、古い町並みを歩いてゆくと、「
細畑の一里塚」が道の両側にありました。









一里塚の少し先に、延命地蔵堂があり、その横に下の写真の道標があります。道標に向かって右側には、「西京道 加納宿 凡八丁」、左側には「伊勢 名古屋 ちかみち 笠松 凡一里」と刻まれています。



やがて、名鉄・「茶所」駅の踏切を渡ると、すぐ左手の少し奥に、道標と「鏡岩」の碑とが建っています。





案内板によると、

鏡岩」とは、江戸の相撲取り「鏡岩浜之助」のことで、その子も父・浜之助を継いで、「二代目鏡岩」を名乗りましたが、素行が悪くて困っていました。

しかし、その後反省して、父の十三回忌に、この碑を建立して供養したそうです。

また、名僧に教えを請い、ここに「茶所」を設けて、旅人を接待したそうです。

「鏡」の字がある写真の円形の碑は、「自刻像」と言われ、旅人に、棒で円形の碑を打たせて罪滅ぼしをしたところから「ぶたせ地蔵」とも呼ばれたそうです。

ふ〜ん・・・

罪滅ぼしとはいえ、自分の像を、旅人に棒で打たせるというのも、何だかなあ〜・・・

また、道標には、写真の様に、「東海道いせ路 江戸木曽路」とあります。





鏡岩の碑を右折、明治の道標を左折して、広い道路を横切ると、もう加納宿です。


鵜沼宿から加納宿までは、約17キロです。






52-1:鵜沼・犬山城へ

53-1:加納へ

               
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