江戸幕府の「道中奉行」の管轄だった「5街道」のうちの「奥州街道」は、日本橋が始点で、
ここ「白河宿」が終点でした。
白河宿は、白河藩10万石の城下町で、本陣1、脇本陣2、旅籠35の大きな宿場町でした。
白河宿のメインストリートを歩いて行きます。
レトロなバスが走っています。
数分歩くと上の写真の「なまこ壁の土蔵」がありました。
更に数分歩くと、交差点の角に、上の写真の明治14年創業の「奈良屋呉服店」がありました。
奥州街道と並行している門前通りを暫く歩いて行くと、道路は鉤型(かぎがた)に曲がり、
その鉤型の先の右手に下の写真の「天恩皇徳寺」(てんのんこうとくじ)があります。
天恩皇徳寺でのお目当ては、「♪会津磐梯山♪」の唄で有名な「小原庄助」の墓です。
徳利に盃を伏せた格好の写真のユニークな墓石には、「米汁呑了信士」と戒名が
刻まれています。
説明板によると、有名な小原庄助さんは、会津の塗師の久五郎とのことで、白河に絵付けを
習いに来ていて、ここで亡くなったそうです。
時世の句は、「朝によし 昼になほよし 晩によし 飯前飯後 その間もよし」だそうです。
エンヤ〜 会津磐梯山は 宝の山よ〜 笹に黄金が エーマタなり下がる〜
エンヤ〜 東山から 日日(ひにち)の便り 行かざなるまい エーマタ顔見せに〜
小原庄助さん 何で身上潰した 朝寝朝酒朝湯が大好きで それで身上潰した
ハァモットモダ〜 モットモダ〜
また、天恩皇徳寺の境内には、白河口の戦いで戦死した下の写真の「菊池央(たのむ)」
の墓もありました。
写真の左の立て札の前の碑が「戦死人供養の碑」で、右の立て札の前の墓標には、側面に
菊池央五郎、正面に誠忠院義勇英劔居士と刻まれています。
菊池央は、元津軽藩士の新選組隊士で、白河口の戦いでは、新選組・近藤局長の仇の
武川直枝を討つという密命を受けていましたが、果たせずに戦死しました。
再び街道に戻り、次の枡形道を抜けて少し歩くと、左側に「長寿院」があります。
境内には、写真の「戊辰殉国者墳墓」があり、新政府軍の墓碑が並んでいます。
説明板によると、長洲藩30基、土佐藩18基、大垣藩13基、舘林藩7基、佐土原藩19基
の個人名を刻んだ墓石だそうです。
上の写真は、1849年に建てられた「四辻道標」(複製)です。
奥州街道は、この四辻道標を左折して北進します。
上の写真の格子戸の商家は、1863年創業の「玉家和菓子店」です。
写真は、「脇本陣蜑ョ」跡です。
明治天皇行在所跡の石柱が立っています。
また、ここは、戊辰戦争の白河口の戦いに参戦した新選組の宿営地で、
斎藤一(はじめ)隊長の他に106名が宿営していました。
明治天皇行が宿泊された蔵座敷も残っていますが、ここ脇本陣蜑ョ跡は全て私有地
なので、所有者のご厚意で玄関から中をチラリと覗けるだけで中へは入れません。
街道に戻り、枡形道を抜けて3〜4分歩くと、JR白河駅前の交差点に出ました。
写真の風情ある洋館づくりの白河駅は、大正10年の建築です。
広い意味では、奥州街道の終点は青森ですが、5街道という意味では、ここ白河宿が
終点です。
これは、白河宿までが幕府の道中奉行の直轄の管理で、白河宿から先の奥州街道は、
各藩の管轄だったからです。
謂わば、5街道が今の国道で、各藩が管轄する街道は今の県道です。
と言う訳で、遂に、東海道、中山道、日光街道に続いて、奥州街道も踏破しました!!!
余談ですが、江戸時代の5街道の呼び方は、東海道、中山道、日光道中、奥州道中、
甲州道中でした。
明治に入り、徳川憎しの明治政府は、徳川幕府が決めた「道中」の名称を嫌い「街道」と
改名しました。
次回は、白河駅の東北本線の下を遊歩道で潜って、駅の反対側の小峰城址を訪れます。
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