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奥州街道を歩く(27:白河) 福島県白河市





(写真は、「会津磐梯山」の唄で有名な「小原庄助さん」の墓)







白河の市街地に入ると、街道の正面には、上の写真の様に、戊辰戦争の最大の激戦地
だったここ白河口の稲荷山
がこんもりと見えます。



街道は、稲荷山に突き当って右折しますが、その曲がり角の右側に、「長州大垣藩 戦死
六名墓」と彫られた上の写真の碑がありました。





また、道の左側には、「戦死墓」と刻まれた上の写真の大きな石碑もあります。

説明板によると、1868年、薩長等の新政府軍は、白坂宿から3隊に分けて進軍し、3方から
白河の町を包囲して攻撃しました。

会津藩を中心とする旧幕府軍は、白河城(小峰城)の南西の山地に布陣し、これを
迎え撃ちました。

旧幕府軍は、一旦新政府軍を退けたものの、新政府軍は再び来襲し激戦となりました。

100日間にわたる白河口の激戦で、会津藩を中心とす旧幕府軍は敗退し、小峰城は落城、
城郭は焼失しました。

小峰城の落城は、新政府軍が東北の拠点を確保したことを意味し、旧幕府軍は深刻な打撃を
受けました。

白河口の戦いの戦死者は、新政府軍が113人、旧幕府軍が927人でした。

戦後、両軍が、ここに、各々の戦死者の碑を建てて霊を慰めました。



上の写真は、戊辰戦争の会津藩士の墓で、会津藩の若年寄・横山主税など304名の
戦没藩士の名がびっしりと刻まれています。



下の写真は「田邊軍次」の墓です。



会津藩士の田邊軍次は、白河口で旧幕府軍が敗れたのは、白坂宿の居酒屋の主人の
大平八郎が、新政府軍の道案内をしたからだと知ります。

大勝利を収めた新政府軍は、大平八郎に感謝状を贈り、白坂宿の責任者の地位を与えた
のです。

戊辰戦争の終結後、会津藩は斗南藩と藩名を変えられ、寒冷不毛の地の下北半島へと
追いやられます。

この様なひどい仕打ちを受けた中で、会津藩士の田辺軍次は、「会津藩が滅亡したのは
大平八郎のせいだ。」と、復讐を決意します。

田辺軍次は、乞食同然の姿で、下北半島の斗南から飲まず食わずで、白河宿の手前の
白坂宿にやって来ました。

そして、白坂宿の鶴屋で大平八郎を斬殺し、自らもその場で割腹して果てました。

殺された大平八郎の墓は、白坂宿の観音寺にあります。


寒冷不毛の地の下北半島へと追いやれた会津藩が受けた、筆舌に表せない、寒さと飢えの
生活を描いたのが「ある明治人の記録」(中央公論社)です。

ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (1971年) (中公新書)
柴 五郎
中央公論社


この本は、涙なしには読めない実話です。

主人公の会津藩士は、会津落城時に自刃した祖母、母、姉を偲びながら、下北の不毛の
火山灰地で苦難の少年時代を送ります。

そして下北の地を脱走、東京で下僕などをしながら、流浪の生活を送り、最後は軍隊に
入ります。

薩長中心の軍界の中にあって、会津出身の主人公が、遂に、陸軍のトップまで上り詰める
という、小説よりも面白い、波乱万丈の実話です。




奥州街道は、稲荷山の正面を右折して、少し進むと、写真の「権兵衛稲荷神社」があります。









阿吽(あうん)の形で、狛犬として狐が配されています。

街道に戻り、丁字路を左折して、道なりに進むと、谷津田川(やつたがわ)を南湖橋で渡ります。



この橋を渡ると白河市街地の中心部分の一番町になります。

次回は見どころの多い白河の宿場町の町中を巡ります。

白沢宿から白河宿までは、約8キロです。

江戸幕府の「道中奉行」の管轄だった「5街道」のうちの「奥州街道」は、日本橋が始点で、
ここ「白河宿」が終点でした。

白河宿は、白河藩10万石の城下町で、本陣1、脇本陣2、旅籠35の大きな宿場町でした。




白河宿のメインストリートを歩いて行きます。







レトロなバスが走っています。



数分歩くと上の写真の「なまこ壁の土蔵」がありました。



更に数分歩くと、交差点の角に、上の写真の明治14年創業の「奈良屋呉服店」がありました。

奥州街道と並行している門前通りを暫く歩いて行くと、道路は鉤型(かぎがた)に曲がり、
その鉤型の先の右手に下の写真の
「天恩皇徳寺」(てんのんこうとくじ)があります。









天恩皇徳寺でのお目当ては、「♪会津磐梯山♪」の唄で有名な
「小原庄助」の墓です。



徳利に盃を伏せた格好の写真のユニークな墓石には、「米汁呑了信士」と戒名が
刻まれています。


説明板によると、有名な小原庄助さんは、会津の塗師の久五郎とのことで、白河に絵付けを
習いに来ていて、ここで亡くなったそうです。

時世の句は、「朝によし 昼になほよし 晩によし 飯前飯後 その間もよし」だそうです。

 エンヤ〜 会津磐梯山は 宝の山よ〜 笹に黄金が エーマタなり下がる〜

 エンヤ〜 東山から 日日(ひにち)の便り 行かざなるまい エーマタ顔見せに〜

  小原庄助さん 何で身上潰した 朝寝朝酒朝湯が大好きで それで身上潰した 

ハァモットモダ〜 モットモダ〜

また、天恩皇徳寺の境内には、白河口の戦いで戦死した下の写真の「菊池央(たのむ)」
の墓もありました。



写真の左の立て札の前の碑が「戦死人供養の碑」で、右の立て札の前の墓標には、側面に
菊池央五郎、正面に誠忠院義勇英劔居士と刻まれています。

菊池央は、元津軽藩士の新選組隊士で、白河口の戦いでは、新選組・近藤局長の仇の
武川直枝を討つという密命を受けていましたが、果たせずに戦死しました。



再び街道に戻り、次の枡形道を抜けて少し歩くと、左側に
「長寿院」があります。





境内には、写真の「戊辰殉国者墳墓」があり、新政府軍の墓碑が並んでいます。







説明板によると、長洲藩30基、土佐藩18基、大垣藩13基、舘林藩7基、佐土原藩19基
の個人名を刻んだ墓石だそうです。



上の写真は、1849年に建てられた「四辻道標」(複製)です。

奥州街道は、この四辻道標を左折して北進します。



上の写真の格子戸の商家は、1863年創業の「玉家和菓子店」です。




写真は、
「脇本陣蜑ョ」跡です。





明治天皇行在所跡の石柱が立っています。



また、ここは、戊辰戦争の白河口の戦いに参戦した新選組の宿営地で、
斎藤一(はじめ)隊長の他に106名が宿営していました。



明治天皇行が宿泊された蔵座敷も残っていますが、ここ脇本陣蜑ョ跡は全て私有地
なので、所有者のご厚意で玄関から中をチラリと覗けるだけで中へは入れません。

街道に戻り、枡形道を抜けて3〜4分歩くと、JR白河駅前の交差点に出ました。


写真の風情ある洋館づくりの
白河駅は、大正10年の建築です。



広い意味では、奥州街道の終点は青森ですが、5街道という意味では、ここ
白河宿が
終点
です。

これは、白河宿までが幕府の道中奉行の直轄の管理で、白河宿から先の奥州街道は、
各藩の管轄だったからです。

謂わば、5街道が今の国道で、各藩が管轄する街道は今の県道です。

と言う訳で、
遂に、東海道、中山道、日光街道に続いて、奥州街道も踏破しました!!!


余談ですが、江戸時代の5街道の呼び方は、東海道、中山道、日光道中、奥州道中、
甲州道中でした。

明治に入り、徳川憎しの明治政府は、徳川幕府が決めた「道中」の名称を嫌い「街道」と
改名しました。


次回は、白河駅の東北本線の下を遊歩道で潜って、駅の反対側の小峰城址を訪れます。




26:白坂へ

28:小峰城へ

        
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