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35:藪原



(写真の宮内庁御用達:御婚儀用櫛は、薮原宿名物「お六櫛」でもあります。)

薮原宿は、鳥居峠へ向う旅人の宿場として、また、高山へ向かう飛騨街道の追分の宿として、更には、名物・お六櫛の生産地として栄えていたそうです。

しかし、明治時代の大火で町並みの大半を焼失し、往時の面影を一部に残すのみです。


鳥居峠で、熊と出会うこともなく、無事に、民家が点在する辺りまで下りて来ましたが、薮原宿までは、まだ1.4キロの表示です。



更に、家並みの下り坂を行くと、目の前の風景が開け、右側の小高い場所に、下の写真の「
尾州御鷹匠役所跡」の標柱が建っていました。





説明板によれば、江戸時代の諸大名は、鷹狩りを楽しんでいましたが、ここには、尾張藩から鷹匠と役人が出張して来て、
鷹のヒナを飼育し、尾張藩主や将軍家に差し出していたらしいです。



右手のJRの線路沿いに、急な坂を、更に真っ直ぐに下っていくと、左側に写真の
藪原神社がありました。



途中で、跨線橋を渡り、線路の向こう側の宿場町へ向うべきところを、行き過ぎてしまったみたいです。

慌てて引き返し、JRの線路の下のトンネルをくぐって、薮原宿の町並みに出ました。










宿場町を少し進むと、左手に、写真の
「防火高塀」跡がありました。





1695年に、藪原宿に大火があり、その後の大火対策として、 家と家の間に、石垣と土塀を築いて延焼を防いだそうです。



上の写真は、
薮原宿の名産品「お六櫛」を扱う「お六櫛問屋 篠原商店」です。



上の写真の様に、2階の軒下に、お六櫛の櫛の形をした大きな看板を掲げた商店もあります。



写真の薮原名物のお六櫛は、
ミネバリの木から作られ、鹿の骨を用いて磨きあげられます。

妻籠の旅籠屋の娘だった「
お六」は、いつも頭痛に悩まされていましたが、「御嶽権現」のお告げがあり、お告げの通りにミネバリの木で作った櫛を使ったところ、たちまちその痛みが治ったそうです。

お六櫛は、江戸時代には、江戸の芸者の好みをデザインに取り入れた流行に敏感な商品だったため、
薮原宿のお土産品として大ヒットしていたそうです。

冒頭の写真は「秋篠宮御婚儀紀子妃用 額櫛」です。

宿場町の出口付近には、下の写真の高札場跡がありました。



薮原の宿場町を抜けると、街道は大きく左カーブし、小高い位置に薮原駅が見えました。



少し歩くと、立派な建物の村民センターの前に、蒸気機関車D51が展示された広場があり、その前に「
薮原一里塚」の碑がありました。





薮原一里塚碑の前の県道を左折して、中央西線のガード下を通って、いったん薮原駅前へ出てから、国道19号に合流します。



(薮原駅)



ここから先は、国道19号と旧中山道が重なり、山と山の間を、木曽川、国道、中央西線が並走しますが、立派な歩道が続くので安心です。









眼下に、木曽川の雄大な清流を眺めながら、快適なウォーキングです




うなりをあげて行き交うダンプの騒音と排ガスが気にはなりますが・・・





国道19号の壁一面には、写真の巨大壁画が貼り付けられています。



国道19号を歩いてゆくと、写真の「
吉田洞門」が見えて来ました。



吉田洞門には
歩道がありません!

どうしたら良いの?!




よく見ると、洞門の
外側の崖沿いに歩道が・・・

ホッ・・・



眼下には、木曽川の清流がまじかに流れており、快適なウォーキングです。



岩魚釣りでしょうか、釣りをしている人もチラホラ見えます。

再び、国道19号を歩き続けます。







国道19号の脇の少し奥に、写真の見落としそうな怪しげな案内板が・・・



怪しげなので、どうしようか迷いましたが、この案内板の矢印に従って、草むらの道なき道を歩いてゆきます。



国道19号の山吹トンネルの前に出ました・・・



国道19号の山吹トンネルの中を、トラックの横を歩くのは怖そうなので、山吹トンネルの手前で、国道19号を横断して、川沿いの道を歩いてみます。



景色のよい川沿いの脇道をしばらく歩いてゆくと、また国道19号に合流しました。

やがて、巴淵の交差点があり、右手に宮ノ越宿の看板が出ていました。



看板に従って、交差点を右に曲がり、中央西線のガード下をくぐると、「
巴淵」の石碑がありました。

  

足元を流れる木曽川の巴淵の石碑の下の辺りが、「巴淵」と呼ばれているみたいです。



案内板によると、木曽義仲の愛人の
巴御前は、少女時代には、この淵で泳いでいたそうです。

また、巴御前は、戦いに敗れた義仲と共に自害しようとしましたが、女だからと許されませんでした。

その無念さと義仲への恋慕から、成仏しきれずに、
霊となってこの淵に現れていたそうです。





この巴橋を渡ると、写真の「
手洗水」の水場がありました。



木曽義仲が、南宮神社に参拝する際、この清水で手を清めたそうです。

中山道は、木曽川沿いを下って行きます。

やがて、宮ノ越宿に入り、宮ノ越駅が見えて来ました。


薮原宿から宮ノ越宿までは、約7キロです。


帰りは、宮ノ越駅からJR中央西線に乗ります。

中央西線は、沿線の人々の通勤、通学の足なのでしょう、夕方の時間帯は満席です。

塩尻で「あずさ」に乗り換えます。

「あずさ」の中で、中山道を歩いているという豊島区のKさんと席が隣になりました。

話題は、中山道の最大の難所である和田峠になりました。

Kさんも、和田峠越えが怖かったので、インターネットのブログで、事前に、色々な人の峠越えの経験を調べてから峠越えに挑んだそうです。



”そのブログの中に、和田峠越えの区間だけ、ツアー会社のウォ−キングに参加した臆病な人がいたんですよ。”

”すみません、その臆病な人、私なんですが・・・”

”あっ・・・、いや、あれ、あなたのブログなんですか?・・・”

いや〜!

こんな所で私のブログの読者にお会いしょうとは思いませんでした!

34-2:奈良井・鳥居峠

36:宮ノ越

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