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日光街道を歩く - 日光東照宮




(写真は、東照宮を戊辰戦争の戦火から守った「板垣退助」の像)


本日は、午前中に、日光街道の最後の宿場である「鉢石(はついし)宿」の見物
を既に終え、午後は、「世界遺産・日光東照宮」を見物してから横浜に帰る予定
です。

日光東照宮の見学の前に、”幕末の日光(鉢石宿、杉並木、東照宮)”について
]説明しておきたいと思います。

鉢石宿の外れの金谷ホテルへの登り口のところに、下の写真の
「板垣退助像」
があります。



何故、ここに「板垣退助」の像があるの?

板垣退助の像がここに建ったのは、戊辰戦争のときに、新政府軍と旧幕府軍が
ここで衝突した際の以下のエピソードによるものです。

「錦の御旗」を掲げて北上を続ける新政府軍に対し、旧幕府軍は「東照大権現
の御旗」を掲げて交戦します。

最も激戦となった宇都宮城の攻防戦で勝利した旧幕府軍は、勢いに乗って、
日光を拠点にして会津藩や仙台藩と連携して、連合戦線を築こうと「日光廟」へ
向かいます。

また、宇都宮城の攻防戦で負傷した土方歳三は、「大鳥圭介」率いる旧幕府軍
に合流して、会津藩士らと共に「日光廟」に立て籠もりました。

日光廟に立て籠もった大鳥圭介軍に対し、地元の僧侶は、東照宮を戦火から
守って欲しいと、旧幕府軍と新政府軍の双方を説得します。

この説得を受け入れて、「板垣退助」は、旧幕府軍が会津への撤退を完了する
までの間は、攻撃を差し控える旨、大鳥圭介に伝えます。

大鳥圭介は、板垣退助との約束を信じ、旧幕府軍は日光廟を抜け出して、会津
まで退きました。

こうやって、東照宮は、戊辰戦争の戦火から辛くも逃れることが出来たのでした。
また、この一方で、これに伴う悲劇も起きました。

東照宮の参道を下りた突き当たりの所に、下の写真の
「八王子 千人同心」碑
が建っています。



碑には、「日光火之番 八王子千人同心 顕彰之燈」と刻まれています。



「八王子 千人同心 」の役目は、東照宮の警備であり、千人同心の頭1名と
同心50名で、半年交代で警備していました。

新政府軍が日光に進軍して来たときの千人同心の頭は、石坂弥次右衛門
(やじえもん)でした。

弥次右衛門率いる八王子千人同心は、大鳥圭介率の指示に従い、刀を交える
ことなく、日光廟を新政府軍に明け渡しました。

その後、弥次右衛門は、千人同心の仲間達から、戦わずして日光廟を
明け渡したと非難されます。

任を解かれた弥次右衛門は、八王子に戻りますが、帰郷した夜に
切腹しました・・・


幕末の英国外交官だった
アーネスト・サトウは、親しい間柄だった大隈重信に、
戊辰戦争の戦況を聞いた内容を、
「一外交官の見た明治維新」の中で、以下の
様に書いています。(岩波文庫:上下各840円)

 13日に日光付近の今市で戦闘があり、官軍はこれに勝って進撃中である。

 大隈重信の藩主である肥前侯は、今市の町のある下野(しもつけ)まで進撃
した自藩の部隊から、藩主自ら攻撃の指揮に当たる様に要請されたが、家老達
がその出陣を思い止まらせた。

そして、旧幕府軍が日光廟を抜け出して会津まで退いた後に、大隈重信から
聞いた話しとして、以下の様に書いています。

 進撃中の官軍が長岡を占領したあとも戦闘は続いており、両軍の損害は共に
多く、新潟は未だ会津藩士の手中にある。

 官軍は、地歩を確保しながら増援を待っているが、増援部隊が到着すれば、
白河と秋田から来援する部隊をも加えて、一気に会津の首都・若松まで進撃
する予定である。




「板垣退助像」の先の「日光橋」を渡ると、正面に上の写真の
「杉並木寄進碑」があります。



この碑は、大沢宿の手前にあった碑と同様の趣旨の「杉並木寄進碑」です。

日光杉並木は、川越城主の松平正綱・信綱(別名”知恵伊豆”)の親子が、
二十数年をかけて20万本余りを植栽しました。

現在は、日光街道と例幣使街道、会津西街道の計37キロにわたり約12,000本
が残され、唯一、特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けています。

明治5年、アーネスト・サトウは、宇都宮宿で人力車を手配し、杉並木の中を
走り抜けて「鉢石宿」に宿泊しました。

このとき、サトウは、初日に宿泊した脇本陣から、翌日は旅籠へ、その翌日は
他の旅籠へとたらい回しにされます。

徳川幕府の聖地だった日光の人々は、明治初期には、未だ外国人の宿泊を
忌み嫌っていたらしいです。

江戸時代には、日光山の門前町として大いに栄えた「鉢石宿」も、サトウ一行が
訪れたこの頃には、幕府の庇護もなくなり寂れかけていました。

明治政府は、財源確保のために、日光杉並木の大量伐採を計画していました。

アーネスト・サトウは、英国大使を動かして、杉並木の文化価値を明治政府に強く進言、伐採を思い止まらせました。




「板垣退助像」の先の「日光橋」を渡り、石段を登ると、もう「日光東照宮」です。




光東照宮への入口である「日光橋」の左手には、写真の
「神橋(しんきょう)」
あります。

この朱に塗られた橋は、奈良時代の1250年に、「勝道上人」によって創建されたと伝えられる国の重要文化財で世界遺産です。



このアーチ型の木造反り橋は、山口県の錦帯橋、山梨県の猿橋と共に日本
三奇橋と呼ばれているそうです。



神橋の下を流れるのは、大谷川の清流で、神秘的な雰囲気が漂います。

この様な神秘的な風景の中で、芭蕉も感動的な句を残しています。

”あらたうと 青葉若葉の 日の光”

(青葉や若葉に差し込む日の光は、この日光山のご威光そのもので、実に
尊いものだ。)

そして、日光橋の右手前は、写真の
「天海上人像」です。



天海上人は、108歳で亡くなるまでの間、徳川家康・秀忠・家光の三代に
わたって相談役として仕え、家康死後は東照宮の創建に尽くした「日光山中興
の祖」です。

江戸時代に108歳とは凄い!



「日光橋」を渡ると、いよいよ日光東照宮へ向かう上りの石段です。



東照宮は、1617年、二代将軍秀忠によって造営され、三代将軍家光によって
建てかえられて、現在の豪華絢爛な社殿群になっています。

徳川家康を祀る境内には、国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟の建造物
が並びます。


東照宮は、今回、私が行った時は、数十年に1度の平成の大修復中でした。



境内に15ある重要文化財の社を、順番に修復していき、全ての社の復中が
完了するのは12年後だそうです。



上の写真は、
「輪王寺三仏堂」ですが、ここも残念ながら、約50年ぶりの大修理
が、約10年の歳月をかけて行われています。





しかし、修理の第一段階として、三仏堂の大伽藍を覆う「素屋根」が平成23年に完成していて、ここに「展望見学通路」が設けられています。





ここからは、三仏堂の屋根頂上と同じ高さから修理現場を見学することが出来るので、逆に貴重な見学が出来ます。



東照宮の表門を入り、陽明門へ向う途中の有名な
”三猿”は、8面のうち左から
2番目(赤丸印)の画の「見ざる、言わざる、聞かざる」の部分だけが修復を終えています。



三猿の左右は、16匹が8面に分かれていて、誕生から親になるまでの一生を
表しています。





上の写真は、日が暮れるのも忘れると言われる程に装飾が豪華な
「陽明門」
ですが、こちらも残念ながら修復中でした。






上の写真は、有名な国宝
「眠り猫」です。

こちらは、丁度、60年ぶりのお色直しを終えたばかりで、色鮮やかに復元されて
います。

修復前は、猫は目を閉じていましたが、資料に基づき、何と!、
目を開けた姿にして修復したそうです!


下の写真は、その「眠り猫の裏側」です。



眠り猫は、江戸時代初期の作品ですが、作者は不明だそうです。




上の写真の五重塔では、ちょうど塔の内部の初公開をやっていました。

東照宮五重塔の心柱特別公開(300円)」



上の写真ではちょっと分かり辛いですが、心柱(しんばしら)の下は浮いており、
塔と分離した心柱は、免震の機能を果たしています。
そして、この心柱の技法は、東京スカイツリーに活かされているそうです。




そうか!、入場のときに配られたクリアファイルに、五重塔と並んでスカイツリーの写真があるのはそう言う意味なんだ!





上の写真は、
輪王寺「大猷院(たいゆういん)」で、三代将軍家光の霊廟です。
(550円)

この大猷院の建造物も、残念ながら修復中でしたが、下の写真の鐘楼や唐門は見られました。



東照宮を凌いではならないという家光の遺言により、黒と金を基調とした
落ち着いた造りに抑えられているそうです。








最後に
「家康の墓」に行きますが、ここについては、明治11年に書かれた
英国旅行家の
イザベラ・バード「日本奥地紀行1」(平凡社:3,240円)に
記載された「家康の墓」についての紀行文に、私の写真を挿入してご案内します。



 「家康の墓」へ行くには、東回廊に設けられている坂下門をくぐり、苔や
二輪草の緑が目立つ石畳の参道に入って行くことになる。



 墓は、207段の石段を上った山の頂きの一番奥の高い所、家康を称えて
建立された全ての社殿を背後から見下ろすかの如くにあった。





 大きな石積みの上に青銅の壺が乗る簡素な墓(宝塔)で、そこに家康の
遺骸が眠っているのである。



 宝塔の前には、石の台が置かれ、その上には、青銅の香炉と青銅の鶴が
乗っている。



 私は、石垣、石畳の参道、石段、石棚の柱石にも感服した。



 これらは全て、漆喰やセメントを用いずに、極めて精密にぴったりと
組み合わされている。

 このため、260年も経っているのに、継ぎ目は、雨にも湿気にも根付こうとする
植物にもほとんど侵されていない。

 背後の山に生成する杉の大木は周りを昼なお薄暗くしており、木漏れ日が
斜めに差し込むだけである。

 周囲の自然が、偉大な将軍の荘厳な墓を、悲しみをたたえながらすっぽりと
包んでいる。

(以上、イザベラ・バード「日本奥地紀行1」から : 私の文章ではありません、
念のため・・・




東照宮を出て、東武日光駅から、JR新宿駅行きの東武電車に乗って、横浜まで
帰ります。



東武とJRとの相互乗り入れの電車に乗るのは始めてです。


ps.
日光街道踏破の全行程は、ホームページ(「中山道を歩く(完全踏破の一人旅)」)の欄外に、「日光街道」として補記追加しました。

また、ホームページ(「東海道五十三次を歩く(完全踏破の一人旅)」)もありますので、こちらも併せてごらん下さい。


今後予定している奥州街道/甲州街道や横浜東京近辺のウォーキングは、
ブログ「ウォーク更家の散歩」(http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie)でご覧下さい。

21:鉢石へ
   

        
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