(写真は「鷹見泉石 記念館」)
旧日光街道沿いの「古河(こが)宿」と書かれた常夜灯の辺りから、古河宿に
入って行きます。
常夜灯の脇の「松並木のある風景 日光街道」と書かれた説明板によると、
「江戸時代、ここには、約5キロにわたって松並木が整然と続いていました。」
とあります。
綺麗に整備された気持ちの良い歩道が続きます。
宿場町の案内文が書かれた立派な「常夜灯」が一定間隔で設置されていて、
古河市の古河宿への熱い思い入れが伝わって来ます。
解り易い案内文が続き、街道歩きの私もワクワクしてきます。
更に街道沿いに進むと、左手に、上の写真の「茶屋口」碑がありました。
将軍の日光社参の宿泊のための古河城入場の際は、ここ「茶屋口」に
休息所を設けて将軍を迎え、将軍はここから御成門へ向かいました。
私も、ここで左折して、将軍が古河城へ向かったのと同じ「鍵の手」の道を
古河城跡へ向かいます。
鍵の手の道の両側には、写真のような雰囲気のある建物が並んでいます。
更に進むと、城跡の敷地に建てられた上の写真の古河第一小学校が
ありますが、まるで私立のミッションスクールの様な雰囲気で、とても
市立の小学校とは思えません!
小学校の先の古河城跡に建てられたという「古河歴史博物館」(400円)に
入ります。
(館内撮影禁止)
博物館の入口に、下の写真の「史跡 古河城 出城 諏訪郭」」の石碑が
ありました。
この石碑の辺りに、古河城の出城が建てられていたらしいです。
館内のビデオ映像で、古河城の歴史について学びます。
「古河城」は、1663年に、初代大老の土井利勝が城主になりますが、その後
次々と譜代大名が城主になり、1762年に土井家が再び城主となって明治に
及びました。
館内は、CGによる古河城の全容復元や、古河城と城下町の復元模型などの
充実した展示物で、なかなか見応えがありお薦めです。
これによると、古河城は、西は渡良瀬川、東は百軒堀に囲まれた細長い敷地
の中にあり、本丸の三階櫓が天守閣の役割を果たしていたそうです。
「古河城」は、日光に詣でる将軍の宿泊所として利用されましたが、
明治以降、渡良瀬川の河川改修によって大半が取り壊され、堤防や河川敷
になってしまい失われました。
展示物の中には、江戸から日光までの各宿間の距離が一目で分かる様に
工夫された「日光駅路数之表」や、鷹見泉石(たかみせんせき)が書いた
世界地図「新製興地全図」なども展示されており充実しています。
館内の展示資料によると、「南総里見八犬伝」の主人公・犬塚信乃は、
何と!、ここ古河城から渡良瀬川に飛び込み、利根川を下って、
行徳(千葉県)まで流れ着いたそうです!
古河城は、南総里見八犬伝の舞台だったんだ!、知らなかったな〜!
「古河歴史博物館」は、「古河城」の百間堀を隔てた「出城」の跡に
建てられました。
博物館の前庭は、古河城のお堀の発掘調査をしたあとに、お堀をかさ上げ
して、写真の様な素敵な「親水公園」になっています。
博物館の道路向いには、古河藩・家老「鷹見泉石(たかみせんせき)」が
晩年を送った武家屋敷を復元した「鷹見泉石 記念館」(無料)がありました。
家老の鷹見泉石は、藩主・土井利位(としつら)が大阪城代だったときに、
大塩平八郎の乱の鎮圧を直接指揮しました。
泉石は、司馬江漢、渡辺崋山らとも交友があり、下の写真は、崋山が描いた
鷹見泉石の肖像画です。
泉石は、蘭学者で、天文、地理、軍事など広範囲にわたる研究成果を残して
います。
また、泉石は、広い視野をもって、早くから開国論を唱えていましたが、
そのためにのちに幕府から咎められ、免職となって古河に隠居させられました。
鷹見泉石記念館の前の道を進むと、左手に写真の1493年創建の「長谷寺」が
あります。
「長谷寺」は、古河城の鬼門除けとして、1493年に、鎌倉の長谷寺から勧請
したもので、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺と共に「日本三長谷の観音」と
称されるそうです。
長谷寺の前の道を、博物館入口の信号まで進み、左折して少し進むと、
左手奥に、写真の「古河城の大手門」跡の石碑がありました。
大手門跡の石碑から、博物館入口の信号まで戻り、更に直進してJR古河駅に
向かいます。
JR古河駅から、上野東京ラインで、乗換えなしで横浜へ帰りました。
翌朝、昨夕のゴールになったJR古河駅をスタートします。
JR古河駅の前には、写真の「万葉古河の歌碑」が建っていました。
「古河」は、万葉の時代は「許我(こが)」と表記されていたそうです。
歌碑には、「古河(許我)」の地名を含む歌が刻まれています。
”逢わずして 行かば惜しけむ まくらがの 許我(こが)漕ぐ船に
君も逢わぬかも”
(会わないまま出かけるのは心残りです。古河を漕ぐ舟の中でも会えない
ものでしょうか。)
古河駅の前の道を直進すると、昨日歩いた旧日光街道と交差します。
その街道沿いの古河宿の各名所案内が書かれた常夜灯の中に写真の
「公方(くぼう)の城 古河城」の説明がありました。
それによると、古河は古くから拓け、利根川の河川交通の要所として発展
してきました。
鎌倉を追われた室町幕府将軍・足利尊氏の子孫が、「古河公方(くぼう)」として
5代120年にわたり、古河を居城(御座所)としていました。
そして、江戸時代に入ると、徳川譜代大名の城下町として、大老の土井氏、
堀田氏を筆頭に、閣老級の大名が次々と城主となり、将軍の日光社参の際の
御泊城となりました。
古河駅から来た道と旧日光街道との交差点の近くに、上の写真の「高札場跡」
の石碑があります。
そして、高札場跡の道路向い側に上の写真の「本陣跡」の碑もあります。
その高札場跡と本陣跡の間の道を、古河駅とは反対の方向へ向かって歩いて
行きます。
すると、博物館入口の信号の右手に、「正定寺」(しょうじょうじ)の通用門
である「赤門」がありました。
「正定寺」は、家康・秀忠・家光に仕えた古河城主の土井利勝が、1633年に
創建した土井家の菩提寺で、境内には土井一族の墓があります。
城主の土井利勝は、秀忠のときに老中に、家光のときに大老にと、
とんとん拍子の大出世をしました。
上の写真は、正定寺の正門である「黒門」で、案内板によると、東京・本郷に
あった土井家・下屋敷の表門を、昭和8年に、ここに移築したのだそうです。
境内に入ると、本堂の前には、上の写真の「土井利勝公の銅像」があり、
本堂の裏手には、「古河城主 土井家墓所」の案内板がありました。
案内板に従って、奥に進むと、写真の様に、土井家一族の墓がありました。
また境内には、下の写真の「お楽の方の供養塔」がありました。
説明板によると、「お楽の方」は、ここ古河の出身で、春日局の目にとまって
大奥に入り、4代将軍・徳川家綱を生みました。
上の写真の供養塔の左脇のお地蔵様は、江戸城内にあった子育て祈願の
お地蔵様を貰い受けたものだそうです。
正定寺を出て、旧日光街道に戻り、更に進むと、以下の写真の様な雰囲気の
ある民家が点在します。
やがて、1861年に建てられたという下の写真の常夜燈を備えた立派な
「常夜燈の道しるべ」がありました。
道標には、「右 江戸衛(へ)」、「左 日光道」と彫られています。
その道標のある交差点に、写真の「左 日光道」の小さな道標があったので、
これに従い左折します。
小さな道標から、街道は鉤の手になっており、直ぐに右折すると、
「よこまち柳通り」になります。
この通りを進むと、直ぐに県道261号に合流しますが、合流地点に古河宿の
常夜灯があり、古河宿がここで終わることを示しています。
間もなく、県道261号は、茨城県から栃木県に入って行きます。
古河宿から次の野木宿までは、約3キロです。/