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日光街道を歩く  06:幸手


 

(写真は、無縁仏の供養塔を積み上げてある正福寺の境内)
  
「幸手(さって)宿」は、「日光街道」と「日光御成り道」の合流点の宿場町として栄えました。

また、権現堂川を利用した江戸との間の船便の交通の要所だったので、河岸には廻船問屋が軒を連ねていました。




「日光御成り道」と合流した旧日光街道は、倉松川に架かる志手橋を渡り、
幸手宿に入ります。



志手橋を渡ると、すぐ右手に写真の
「神明(しんめい)神社」があります。



鳥居の脇に
「螺(たにし)不動」と彫られた石碑がありました。



境内の狛犬は?えっ!、田螺(たにし)を抱えている?、と早とちり
してしまいました!



帰宅してから、インターネットで調べてみると、狛犬が抱えているのは田螺
ではなくて牡丹の花でした・・・

そりゃそうですよね、田螺はこんなに大きくないですものね。



境内の左側にあるのが、
「たにし不動」と呼ばれる「菅谷(すがたに)不動尊」
です。


説明板によると、「たにし」を描いた絵馬を奉納して祈願すれば、眼の病に
ご利益があると言われたそうで、江戸時代には多くの参詣人を集めたそうです。

う〜ん、「たにし」の絵馬ねえ?、聞いたことがないなあ〜。

また、同じ説明板によると、ここに高札場があり、ここから先が幸手宿だった
そうです。



神明神社を出て進むと、左手に、上の写真の様に「明治天皇幸手行在所」石碑があり、その奥に屋根で覆われた説明板があり、そこに明治天皇の行幸の様子が書かれていました。




その明治天皇行在所の前に、上の写真の真新しい雰囲気のある大きな民家がありました。

その大きな民家の横に、下の写真の国有形文化財の標柱がありました。



その説明板によれば、この大きな民家は、国有形文化財の
「岸本家住宅母屋」で、醤油醸造業の「上埜屋」(うえのや)だったそうです。

この民家は、現在、改装されてカフェになっているみたいなので、入って
一休みします。



店の奥の重厚な黒い扉の付いた和室は、貸し切りの部屋になっているみたい
です。



店のおにいさんの話しだと、この黒い扉の奥の和室は、大正時代に醤油蔵
だったものを、そのままカフェの客室として使用しているそうです。

店のおねえさんに、この先の「たにし不動」について質問してみますが、ここの
おねえさんは「たにし不動」の存在自体を知りませんでした。

う〜ん・・・、たにしの絵馬も置いてなかったし、地元の人も知らないという
ことは、「たにし」信仰は廃れてしまったのかなぁ〜?・・・



わらび餅、ぜんざい、ホット抹茶ラテで、身体か暖まったところで、このカフェを
出て、幸手宿のメインストリートを進んで行きます。



上の写真は、新しく建替えられていますが、江戸時代から続いている老舗旅館の「あさよろず(朝萬)」です。

メインストリートの「幸手駅入り口」の交叉点の辺りから、旧日光街道の両側
には、歴史を感じる民家が予想以上に多く点在します!

以下、点在する雰囲気のある民家の数々です。













更に進むと、右手に、上の写真の小さな公園があり、園内に問屋場跡の説明板がありました。

説明板の奥の幸手福祉会館にトイレがありました。

最近、だいぶ寒くなって来たので、街道沿いの公衆トイレは有難いです。



上の写真は、幸手宿の中心となる本陣家だった知久家跡です。



更に進んで行くと、正面の左端に大きな石灯籠が見え、旧日光街道は右に
大きくカーブします。

そのカーブの右角に、下の写真の「一里塚跡」の説明板がありました。





そして、その一里塚跡の道路向こうが上の写真の
「正福寺」(しょうふくじ)です。





境内には、大きな
日光街道の道標があり、3枚の写真の上から順に、
「(道標の左側面に)日光道中」、「(右側面に)ごんげんどうがし
(権現堂河岸)」、「(中央面に)馬頭観世音供養 寛成12年」と
刻まれています。





また、日光街道の道標の奥には、下の写真の「義賑窮餓(ぎしんきゅうが)
の碑」があります。



その説明板によると、1783年の浅間山の大噴火の際、関東一円には灰が
降り、冷害も重なって大飢饉なりました。

この時、幸手町の有志が金品を出し合って、難民の救援に当りました。

この善行を知った関東郡代の伊那忠尊が、この顕彰碑を建てさせたのだ
そうです。

また境内には、下の写真の様に、無縁仏となった供養塔が積み上げて
ありました。






正福寺(しょうふくじ)を出ると、その左横が、隣り同士でややこしいですが、
同じ読み方の
「聖福寺」(しょうふくじ)です。



その「聖福寺」の参道に入ってみると、直ぐの右手に、下の写真の真新しい
「芭蕉句碑」がありました。



 ”幸手を行ば 栗橋の関” (芭蕉)     

 ”松杉を はさみ揃(そろ)ゆる 寺の門” (曽良)

芭蕉の句に上の句が無いのは謎らしいですが、下の曽良の句との連歌になっているという説もあるそうです。

また、曽良の句の中の”門”は、この聖福寺の勅使門を指すそうです。



参道を進むと写真の立派な
「勅使門」がありました。

  

説明板によると、徳川家光が日光社参の際に休憩所として使用した他、
例弊使や歴代の将軍が18回にわたりここで休憩したそうです。



勅使門には、写真の様に、菊のご紋の入った扉が付いています。



聖福寺を出て、Y字路の信号を左折、更に進んで行くと、やがて国道4号に
合流します。





国道4号を少し歩くと、右手前方に、桜名所で有名な権現堂桜堤が見えて
来ました。



花見で有名な幸手(さって)の
「権現堂堤」は、埼玉県随一の桜の名所です。

春には、菜の花と桜が同時に咲き乱れ、県外からも大勢の見物客が訪れ
大賑わいする超有名なスポットです。

その権現堂堤を歩いてみます。









今は花も葉も散ってしまっていますが、桜の花の季節はきっと見事なんでしょうね。

少し歩くと、写真のお休み処があったので、飲み物を飲んで一休みします。



お休み処の前に、菜の花と桜が一面に咲き乱れる春の権現堂堤の写真が
貼ってあります。



空の青に菜の花の黄色と桜のピンクが映えて絶景です!

春の桜の時期に、再び訪れてみたいです。

桜堤の下に、写真の
「巡礼の碑」がありました。



その説明板によると、昔、この一帯は、何度も水害に見舞われ、農民は塗炭の苦しみを味わっていました。

そこで、この水害を無くすために、権現堂堤の土木工事が行われましたが、
困難の連続で失敗続きでした。

そこへ、通りかかった巡礼の母子が、人柱になることを申し出、止める暇もなく
身を投じました!
えぇ〜!、ホント?

通りかかっただけでく身を投じたの?

この人身御供により、川の水は穏やかになり、難工事が完成したそうです。



でも、その説明板には続きがあり、”工事は無駄”と言った巡礼母子に
腹を立てた人夫らによって、巡礼母子が川に投げ込まれた!、
という説もあるそうです・・・

えぇ〜!、怖っ〜!

どちらの説が史実なのでしょうか?、気になって夜も眠られません・・・

上記の「巡礼の碑」の近くに、下の写真の巨大な「巡礼供養塔」もありました。





国道4号に戻り、中川に架かる行幸橋(みゆきばし)を渡ります。







橋を渡ると、旧日光街道は、直ぐに左の小道に入り、暫くの間、この小道を
歩いて行きます。







やがて、街道の正面に、1775年の建立の
「外国府間(そとごうま)」の道標
建っています。





正面には仏像が彫られ、その下に「右 津くば(つくば)道」「左 日光道」と
彫られています。

その道標に従い、左手の田畑の中の道を進んで行くと、小高い塚の上に、
下の写真の弁財天堂が建てられていました。



その説明板によると、ここが
「小右衛門の一里塚跡」だそうです。



一里塚跡を過ぎて、国道4号の脇の下の旧日光街道を進むと、前方に
工業団地入口の交差点が見えて来るので、この交差点の下の地下道をくぐって反対側に出ます。



反対側に出ると、権現堂川沿いの見晴らしのよい遊歩道がありました。



その遊歩道の脇にトイレがありました。

最近、だいぶ寒くなって来たので、街道沿いの公衆トイレは有難いです。



ここから先の旧日光街道は、左手の国道4号と右手の権現堂川との間の、
快適な桜並木の遊歩道が延々と続きます。







この見晴らしの良い桜並木の道の対岸には、キューピーマヨネーズ等の工場群が見えます。









狂い咲きでしょうか?、この寒さの中、所々に、写真の様に桜が咲いて
います・・・



春の桜満開の時期は素晴らしい風景でしょうね!

秋晴れの空のもと、気分もウキウキと、快適なウォーキングです!







やがて、この見晴らしの良い桜並木道は、東北新幹線の高架をくぐり、
小右衛門北の交差点で、国道4号の下をくぐって反対側に出て、国道4号の左側を歩いて行きます。









国道4号を少し歩くと、左脇に「栗橋大一劇場」というちょっと怪しげな?劇場がありますが、街道は、この劇場の前の左の脇道に入って行きます。





街道は、間もなく、国道4号に合流しますが、その手前に、下の写真の
「会津見送り稲荷」がありました。





その説明板によると、会津藩の武士が、江戸へ重要な書面を届けるため、
ここまで来たとき、道に迷って大変困っていると、突然、白髪の老人が現れて
道案内をしてくれました。



お蔭で、武士は無事に役目を果たすことが出来ました。

のちになって、この老人が狐の化身であることが判り、ここにお稲荷様として
祀ったそうです。



街道は、再び国道4号に合流します。

やがて、街道は国道4号沿いの左下の脇道になりますが、間もなく、左からきた国道125号の高架の土手に突き当たってしまいます。

そこで、街道は、この国道125号を回避して、その向こう側に行くために、
国道4号の反対側に渡って、脇道の坂を下り、国道4号の下をくって、国道125号の向こう側の、国道4号沿いの脇道へ再び出ます。







暫く国道4号に沿った下の細い道を歩いて行きますが、この細い道が広くなった辺りから先が栗橋宿の様です。




幸手宿から栗橋宿までは、約8キロです。


05:杉戸へ

07:栗橋へ


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