(写真は、草加名物「草加せんべい」)
1606年、幕府の命を受けた大川図書(ずしょ)が、それまで大きく東に迂回して
いた日光街道の「千住宿」〜「越谷宿」の間を、一直線で結ぶ草加新道を
造りました。
なるほど、そうか〜!(草加!)、それで、日光街道は、歩いても歩いても、
北へ北へと一直線なんだ!、納得!
”草”を”刈”って、草加新道を開いたのが、「草加」の地名の由来だそうです。
その後、1630年に、千住宿〜越谷宿の「間の宿(あいのしゅく)」として、
「草加宿」が設けられました。
草加宿に入って行きます。
草加宿の入口の分岐点のY字路の真ん中に、下の写真の木の標識と、
「今様 草加宿」と彫られた赤い石碑がありました。
この標識の左手の道を入って行くと、左手に草加市役所があり、上の写真の
「浅古家の地蔵堂」がその敷地内にありました。
この地蔵堂は、江戸時代の豪商・浅古氏が、用水を流れていた地蔵を
拾い上げ、子育て地蔵として祀ったのだそうです。
草加宿は、古い家屋が数軒点在するくらいで、残念ながら、当時の雰囲気は
残っていません。
両側に、写真の様な煎餅屋を見ながら、宿場町を北上して行きます。
草加市内には、53軒もの煎餅屋があるそうです。
上の写真は、明治期の町屋建築「藤城家」で、国有形文化財です。
(大川本陣跡)
上の写真の「道路元標」の辺りは、問屋場があったところで、石の元標には
「千住町へ2里17町53間3尺、越谷へ1里33町30間3尺」と彫られています。
更に進むと、草加小学校の前に歴史資料館の標識があったので、標識に
従って、小学校の裏に回ってみると、古い校舎の一部が、写真の「歴史民俗
資料館」(無料)になっていました。
中には、草加の歴史資料や民俗資料、それに宿場町の歴史説明、草加
せんべいの作り方等、想像以上に豊富な展示物です。
貼紙には「ご自由に写真撮影をお楽しみ下さい」とあります。
嬉しい心遣いです!
草加小学校裏の資料館を出て、表通りに戻り、その先の左手の細い道を
「東福寺」へ向かいます。
東福寺は、草加宿の開宿に尽力した大川図書(ずしょ)が1606年に創建した
寺で、本堂、山門、鐘楼ともに江戸後期の建造物です。
表通りに戻ると、右手に上の写真の「おせん茶屋公園」がありました。
その説明板によると、日光街道の草加松原の茶店の”おせん婆さん”が、
団子が腐り易いと客に嘆いたところ、客の武士が、「団子を薄くのばし、天日で
乾かし、火で焼いてみたら。」と教えたのが始まりだそうです。
それが、いつしか草加宿の名物「草加せんべい」として世間に広まり全国区と
なりました。
おせん茶屋公園の前の写真の「元祖 源兵衛せんべい」で、草加せんべいを
買います。
店の女将さんの話だと、この店の煎餅は、江戸時代と同じ製法の店頭での
手焼きで、種類も昔からの1種類だけしか売っていないとのこと。
(1袋10枚:900円)
これから行く草加松原について、女将さんから色々と情報を仕入れます。
「源兵衛せんべい」を出て信号を渡ると、左手に、上の写真の無料観光案内所
「草加宿 神明庵」がありました。
中へ入ってみると、郷土愛にあふれる2人のボランティアのおばさんが、
草加宿について色々と面白い話をしてくれました。
ここは草加宿に現存する一番古い建物で、これを改装して平成23年にオープン、40人のボランティアで、交代でお茶の接待をしているそうです。
ここで、草加宿散策の地図を貰い、見物している宿場町と、これから行く
草加松原のポイントをチェックします。
ここでは、近隣の煎餅屋さんの食べ比べが出来る「味くらべせんべい」を
売っていました。
8店舗の8枚が入って600円とお得だったので、「元祖 源兵衛せんべい」で
買ったばかりでしたけど、また買ってしまいました・・・
上の写真の神明庵の2階はギャラリーになっていて、草加宿の歴史や観光案内を展示しています。
神明庵を出ると、日光街道は、直ぐに、写真の神明神社で突当り右折します。
この神明神社が、草加宿の外れです。
日光街道は、草加宿の外れの神明神社の前の道を進むと、直ぐに、大きな道路に突き当たり、右手に、下の写真の松尾芭蕉の弟子の曽良の像がありました。
この道路に合流した先が、日光街道屈指の景勝地である草加松原の
「松並木公園」です。
江戸時代から、「草加松原」として親しまれており、「おくの細道」にも登場し、
松尾芭蕉も歩きました。
平成26年には、国の名勝地に指定されたと、観光案内所のおばさんが
得意げに自慢していました。
このおばさんの自慢話も尤もで、江戸時代から残る古木がほとんど枯れて
しまっていたこの松並木に、新たに松を植えていったのは、お役所ではなくて、
何と!この地元の人達だったそうです!
それも、この松並木の真ん中の歩道部分が、当時は国道4号で、国道沿いの
勝手な植樹は禁止されていたため、役所の見回りのない日曜日に、こっそりと
植えていったそうです。
この地元の人達が植えた苗木は、現在、1.5キロにわたって、写真の様な
立派な松並木になりました。
松並木は、武蔵(ムサシ)国にちなみ、634(ムサシ)本あるそうです。
このうち、幹回りが2メートル以上ある松が約60本あり、これが江戸時代から
残る古木だそうです。
園内には、高さ11メートルの五角形の「望楼」があり、上ると、綾瀬川と
草加松原が一望出来ます。
松並木の街道に入ると、直ぐに、下の写真の「松尾芭蕉像」がありました。
芭蕉像の前の綾瀬川沿いには、上の写真の「札場河岸」跡公園があります。
江戸時代、江戸との主な物流は、綾瀬川の水運でした。
舟の荷は、この「札場河岸」で積み下ろしされました。
観光案内所のおばさんに聞いた話だと、この辺りは、海抜4メートルしかなく、
綾瀬川は、満潮時には、この辺りまで逆流してくるそうです。
当時、江戸から草加へ上ってくる舟は、この逆流に乗って、この札場河岸まで
来たそうです。
驚き!
「綾瀬川」の名前は、江戸時代、頻繁な川の氾濫で、川筋が綾の様に
定まらなかったことに由来するそうです。
絶景の松並木の遊歩道は、気持ちの良い快適な散歩道です!
平日ですが、観光客らしき人々以外にも、地元のらしき人々も大勢歩いて
います。
(芭蕉文学碑)
写真の丸い輪の彫像が、草加松原の終わりを示しているみたいです。
外環道の下を潜って、綾瀬川沿いの桜並木の道を歩いて行きます。
やがて、右手に「蒲生(がもう)大橋」があり、この橋を渡ると、右手に、
下の写真の「蒲生の一里塚」がありました。
このは、埼玉県内の日光街道では、唯一残る一里塚だそうです。
蒲生一里塚の斜めの前綾瀬川沿いに、舟荷の積み下ろしをしていたという
下の写真の「藤助河岸」がありました。
旧日光街道は、蒲生一里塚の前の道を進んで行きます。
静かな住宅街の中を歩いて行くと、右手に上の写真の「馬頭観音」と「不動尊」があり、その先に下の写真の「ぎょうだいさまの祠」がありました。
更に進むと、右手に黒い冠木門が見えてきますが、これが「清蔵院」です。
山門の竜は、左甚五郎の作といわれ、夜な夜な逃げ出して畑を荒らしたこと
から、逃げ出せない様に、下の写真の様に金網で覆ってあるそうです。
驚き!
清蔵院を出ると、旧日光街道は国道に合流します。
JR武蔵野線のガードをくぐり、更に進んで行く、右手に「照蓮院」が見えて
来ます。
境内には、上の写真の「千徳丸供養塔」と、その案内板がありました。
それによると、甲斐・武田氏の家臣・秋山長慶は、武田氏滅亡の際、武田勝頼の遺児の千徳丸を伴って、この地に潜伏しました。
しかし、千徳丸が早世してしまったので、それを悲しんだ長慶は、照蓮院の住職となって菩提を弔ったそうです。
照連院を出ると、正面の道路は、Y字路になり、旧日光街道は、このY字路を
左へ進みます。
このY字路を入ったところが越谷宿です。
草加宿から越谷宿までは、約7キロです。