本文へジャンプ
多摩川を歩く(その53)(百草園:神奈川側) 2023.3.30



(百草園の園内の「松連庵」)


前回は、京王線の百草園駅の前で食事をしてから、百草園駅から電車で帰宅する予定でした。

しかし、駅周辺地図を見ると、「百草園(もぐさえん)」は、ここから徒歩10分とあるので、予定を変更して、急遽、「百草園」まで足を延ばしてみることにしました。

   

駅の少し先の川崎街道沿いに、下の写真の「百草園通り」の標識がありました。

この標識を左へと入って行くみたいです。

結構きつい坂を延々と上って行きます。 

上の看板に「あとひといき(Almost there!)」とあります。

ようやく着いたみたいです。

上の写真が入口の看板だと思って近づいてみたら「あと130メートル」とあります。

ウソ〜!、ようやく着いたと思ったのに・・・

急に坂道の勾配がきつくなり、息切れしてなかなか進めません・・・

「あと130メートル」の看板から、もう200メートルくらい歩いた気がするのに、未だ入口が見えません!

京王電鉄ともあろうものが、これって詐欺じゃあないの?

もうダメ!、歩けなくなり坂の途中で一休みします・・・ 

後で調べたら、この急な坂は「旧松連坂」と言い、多摩地区で最も有名な「激坂」なんだそうです。

だったら、駅前の地図にそう書いてよ!

ようやく「百草園」の入口に着きました。

(入園料:300円、定休日は水曜と年末年始)

百草園は、江戸近郊の名所として「江戸名所図会」などにも描かれています。

また、太田南畝、田山花袋、北村透谷、若山牧水などが訪れています。

きつい坂を上って、ようやく入口に到着しましたが、入口から先も更に急な上り階段です・・・  

上の写真の「あずまや」がありました。

上の写真の石柱は、説明版によると、園内の土中から出てきた石で、本来は寺の入口にあるべき「不詳葷酒入山門」で、酒を口にしたものは寺内に入れないという意味です。 

写真は「心字池」です。

百草園の池は湧水らしいです。

やがて、開けた場所に出て、上の写真の円形の柵に囲まれた梅の木の「寿昌梅」(じゅしょうばい)が目の前に現れます。

江戸時代の享保年間(1716年〜)、小田原藩主の大久保侯の正室の「寿昌院」が、徳川家康の長男の信康の追悼のために、当地に「松連寺」を再建しました。

上の写真の「寿昌梅」は、寿昌院が、自ら植樹した梅だそうです。

寿昌梅の後ろにあるのは、下の写真の茅葺屋根の「松連庵」です。

(座敷)

百草園は、明治6年に廃寺となった松連寺の旧跡を、明治19年に、百草出身の生糸貿易商の青木角蔵が買収しました。

そして、明治20年に公開され、昭和37年に京王電鉄の所有となりました。

へ〜、日野市の所有だと思っていたけど、京王電鉄の所有なんだ!

写真は、「松連庵」の縁側です。

座敷は貸室になっているので入れませんが、縁側は自由に座れます。

松連庵の右側には、上の写真の鉢植えが並んでいました。

さらに右側には、写真の「若山牧水生誕百周年記念碑」がありました。

この記念碑は、若山牧水の長男の設計だそうです。

歌人若山牧水は、早稲田大学在学中に、武蔵野の自然を愛し、度々百草園を訪れたそうで、明治41年春には、恋人の園田小枝子と百草園で過ごしたそうです。

「小鳥より さらに身かろく 美しく かなしく春の 木の間ゆく君」と,、恋人に対する親しみと憧れの心を詠んだそうです。

以下の2枚の写真は、園内にある松尾芭蕉の句碑です。

(春もやゝ けしき調ふ(ととのう) 月と梅)

(句意:おぼろに霞む月の光と、梅の花のほころびに、春の気配が次第にととのってくることだ。)

(しばらくは 花の上なる 月夜かな)

(句意:しばらくの間だけ、咲き誇る花の上に月が照っているが、やがて月は傾き、この美しい景色を楽しむことが出来なくなってしまう。)

園内の奥にある「見晴台」まで上っていきます。 

見晴台からの景色です。

晴天であれば、新宿新都心、東京スカイツリー、筑波山などが望めるそうです。

眼下には、上の写真の様に、現在歩いている多摩川も見えます。

見晴台から、来た道を百草園駅まで戻って来ました。 

(百草園駅)

「百草園駅」から京王線に乗り、分倍河原駅でJR南武線に乗り換え、更に、武蔵小杉駅で東横線に乗り換えて横浜に帰宅しました。

 

 

 

ps.