(写真は、おぎの屋の峠の釜飯)
前回は、横川駅まで歩いたので、今回は、湘南新宿ラインで高崎まで行き、高崎で信越線に乗り換え、終点の横川駅で下りて歩き始めます。
横川駅の隣と前は、峠の釜飯のおぎの屋です。
おぎの屋の食堂で、釜飯を食べて腹ごしらえします。
横川駅の隣には、「碓氷峠・鉄道文化むら」があり、その横が「アプトの道」の入口です。
(鉄道文化むらとアプトの道については、2011.8.20「碓氷峠トロッコ鉄道周辺散歩」のブログを見てね。
横川駅から、坂本宿へ向かいます。
前回、電車の待ち時間の間にチラッと覗いた碓氷峠関所を再び覗いてみると、資料館が開いていて、ボランティアのおじさんが二人で説明していました。
その説明の中で一番面白かった話は、明治維新で新政府の役人が、碓氷峠関所に火を放ったときの事です。
明治政府は、”徳川憎し”だったので、徳川幕府のあらゆる建造物を破壊し尽くしました。
明治政府によって、碓氷関所に火が放たれたとき、関所の同心・後閉は、火のついたままの関所の門を奪い、自宅の近くに隠し持っていたそうです。
写真は、現在の関所の門ですが、その時に焦げたままです。
(赤丸の中の木材が焦げているのが見えますでしょうか?)
箱根、新居、木曽福島、碓氷峠の4大関所のうち、再建ではなく、当時のまま現存するのは、碓氷峠関所の門だけなのに、国指定の関所でないのは碓氷関所だけだと、ボランティアのおじさんがボヤいていました。
上の写真は、資料館に展示されている、和宮降嫁の際の碓氷峠関所を通過したときの記録です。
(通行手形)
(関所の役人の裃)
(関所の模型)
関所跡を出て、国道18号沿いを少しだけ歩くと、薬師坂という歩行者専用道に入り、この坂を登り切ると国道に合流します。
この国道を暫く歩くと、写真の坂本宿の大木戸があります。
坂本宿は、碓氷峠を控えて、泊り客が多かったので、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠40軒と大きな宿場町だったそうです。
この坂本の中央には、用水が流れていて、江戸時代に、この用水の左右に宿場町が作られたのだそうです。
写真の様に、坂本宿の正面に、刎石山(はねいしやま)が見えますが、碓氷峠越えは、この山の尾根をたどって行くのだそうです。
(これから行く碓氷峠は厳しそう・・・)
英泉の浮世絵は、この刎石山を背景に、宿場町を流れる用水が描かれています。
明治になり交通機関が整備されると、坂本の宿場町は衰退し、更に、長野新幹線の開通により、坂本の最寄駅の横川まで衰退してしまったそうです。
旅籠「かぎ屋」の看板が趣があります。
脇本陣跡は公民館になっています。
上の写真は、佐藤本陣跡です。
以下、坂本宿の風景です。
坂本宿の出口近くに、天然温泉「峠の湯」がありました。
この辺りは、中山道とアプトの道が並行して走るために、どちらの道からも入れる様になっています。
上の写真の様に素敵な外観の立派な温泉です。(500円)
碓氷峠を前に、露天風呂にゆっくりと浸かり、ソフトクリームを食べて英気養います。
施設の人の話だと、この温泉施設は、峠の釜飯のおぎの屋の運営らしいです。
宿場を抜けると、すぐに八幡宮があり、その横に、芭蕉の句碑がありました。
”ひとつ脱いで うしろにおひぬ 衣かへ”
(芭蕉が、旅の途中で汗をかき、重ね着を1枚脱いで、衣更えの季節を知った、という意味だそうです。)
さあ、坂本宿を抜けて、いよいよ、中山道の最初の難関・碓氷峠に挑みます!
(横川駅から坂本宿までは、約2キロです。) |
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