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| 『雪国』を読んで | |||||
| 川端康成 著<旺文社文庫> | |||||
| 十二年前に岸恵子が駒子を演じた映画化作品['57]を観た際に「科の作り方といい、喋り方、視線の遣り方といい、こういうのを魔性というのだろうと思わないではいられなかった。八千草薫の演じていた葉子の持つ“邪気に無自覚なるが故の女の恐さ”を含め、これは未読の原作を読まなくてはという気にさせられた。」と綴りながら、先々月、岩下志麻が駒子を演じた映画化作品['65]を観る時点でもまだ未読だった、書棚にある原作小説をようやく読んだ。昭和45年の発行だから五十六年間死蔵させていたわけだが、『禽獣』と『バッタと鈴虫』も併せて収録したうえに48頁に及ぶ解説、参考、作家年表を備えて220円という驚きの価格だった。いくら昔とはいえ、相当な量がはけないとこの価格は成立しないわけで、往時の我が国での読書習慣がこの半世紀でいかに廃れているかが容易に想像できるように感じた。 数多ある文学作品のなかでも飛び切りよく知られた書き出し「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」(P7)は、僕の頭のなかでは「トンネルを抜けると、そこは雪国であった」なのだが、なぜそうなっていたのだろう。TVコマーシャルか何かだったような気もする。ともあれ、岩下版『雪国』を観て「責任を取る必要のない都合の良さに胡坐を掻いている玄人女遊びを愉しみつつ、越後の雪国育ちの女性の辛抱強さに対して「(越後)縮のように清らかな心を持った根の涼しい雪国の女」などと呟き「そして僕は自分の罪の深さを知った」などと言ってのける傲岸不遜さにも呆れた」と綴った島村の造形は、原作小説の高等遊民的「無為徒食の彼」(P95)には感じられなかった一方で、駒子にも葉子にも気を移す好色ぶりと薄情が映画化作品以上に強く印象に残った。 「遠く離れていると、駒子のことがしきりに思われるにかかわらず、さて近くに来てみると、なにか安心してしまうのか、今はもう彼女の肉体も親し過ぎるのか、人肌がなつかしい思いと、山に誘われる思いとは、同じ夢のように感じられるのだった。昨夜駒子が泊まって行ったばかりだからでもあろう。」(P95~P96)としつつ、「葉子がこの家にいるのだと思うと、島村は駒子を呼ぶことにもなぜかこだわりを感じた。駒子の愛情は彼に向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがあって、けれどもかえってそれにつれて、駒子の生きようとしている命が裸の肌のように触れてきもするのだった。彼は駒子を哀れみながら、自らを哀れんだ。そのようなありさまを無心に刺し透す光に似た目が、葉子にありそうな気がして島村はこの女にも惹かれるのだった。」(P110~P111)という島村であった。その二人を「指で覚えている女と眼にともし火をつけていた女」(P16)と書くのが川端康成で、この“指で覚えている女”というフレーズは、岸版『雪国』でも島村(池辺良)が口にしていたが、原作では駒子に会いに向かう車中で「島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている。はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりもしていたが…」(P9~P10)などと綴られていて、なかなか刺激的だ。 映画化作品を観て岸版と岩下版とで、かなり対照的に造形されているように感じた駒子の原作での造形は、そのどちらをも想起させる絶妙の按配だったように感じると同時に、実写でそれを体現させた映画化作品の女優二人に改めて感心した。映画的と言えば、きわめて映画的に感じた一段落があって「鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕顔のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。ことに娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸がふるえたほどだった。」(P11)というものだったが、カラー作品の岩下版で確かめると、実際の映画では夕景色でこれを果たすのは困難で、夜景になっていた。当然のことだと思った。 その岩下版映画化作品は、トンネルを抜ける汽車の場面から始まるのではなく、原作では「新緑の登山季節に入った頃だった」(P18)となっている季節を「春のまだ浅い頃」に移した明るい画面だった。「山はまだ雪が残っているんだね」という島村の台詞が添えられている昭和十年から始まった。雪の一番深い鳥追い祭の頃に訪ねる約束を違えたのは、豪雪以上に昭和十一年二月の二・二六事件勃発を仄めかしているように感じたのだが、原作においてはまるで触れられていないものだった。軍隊のグの字も出てこない。それどころか「二月の十四日には鳥追い祭がある」(P81)と明記されていたから、後先が反対になってしまうじゃないかと苦笑した。 | |||||
| by ヤマ '26. 5.22. 旺文社文庫 | |||||
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