綾瀬ふるさと検定2024 解説
歴史


問5  ①渋谷重国
 渋谷重国は、平清盛が源義朝に勝利した平治の乱(1159年)以降は平氏方に立ちつつ、
敗れて流浪した源氏一族の佐々木秀義を保護しました。源頼朝が挙兵すると、佐々木兄弟が源氏方として行動することを黙認するなど、関東での平氏勢力の追放に助力し、鎌倉幕府成立とともに有力御家人に列しました。
渋谷一族は、平安時代後期に綾瀬一帯の荘園「渋谷荘」を統治していた豪族であり、現在の早川城跡は渋谷氏の館跡と伝えられています。

問6  ①日蓮
 深谷字落合の森(比留川と落合小学校の間)に「びわみ堂」というお堂がありました。
日蓮上人が1271年佐渡に流刑される途中、このびわみ堂で休息したと伝えられています。
その後、お堂は大法寺に移されました。また、このびわみ堂のあった森は、「中世の墓地」と言われ、板碑(いたび)等が発見されています。板碑は2014年に市指定文化財に指定されました。
落合地区に「びわみ堂」という名前のコミュニティバスの停留所があります。

問7  ③お銀さま
 お銀さまは本名「まち」といい、早川村の幾右衛門の娘でした。
三河国の田原藩(現在:愛知県田原市)の江戸屋敷へ奉公に上がり、藩主康友に見初められ、友信(幕末期の藩主 康保の父)という男子を産みました。
お銀さまは、里帰りしたあと二度と江戸屋敷に戻ることなく、その後、小園村の大川家に嫁ぎました。
田原藩の渡辺崋山が残した旅の記録「游相日記」には、お銀さまを訪ねた様子が情緒豊かに描かれています。
お銀さまのお墓は小園南1-20にあります。

問8  ②牛若丸と弁慶五条大橋の図柄 
 熊野社は上土棚の鎮守で、祭神は熊野三神で、本殿・拝殿・棟札および絵馬は市の指定文化財になっています。棟札によると本殿は1727年に、拝殿は1830年にそれぞれ再建されています。
市内にある拝殿としては、江戸時代までさかのぼれる唯一の建物です。
大絵馬で最初に奉納されたのは、牛若丸と弁慶五条大橋の図柄の絵馬で、1823年に奉納されました。
なお、①酒吞童子の絵馬は小園子之社に奉納されています。

問9  ③神崎遺跡
 神崎遺跡は、弥生後期の遺跡で今から約1800年前の環濠集落(周囲に溝を巡らしたムラ)です。
この地から出土した土器のうち95%以上が東海地方の土器の形態に酷似していることから、
東海地方の人々が200㎞以上の距離を集団移住したことなどが明らかになった遺跡です。
綾瀬市だけでなく、日本の歴史に必要な遺跡の発見となったのです。2011年2月に綾瀬市初の国指定史跡になり、2016年には神崎遺跡資料館が建てられました。

問10  ②吉岡遺跡群
 綾瀬浄水場の建設にともなう発掘調査の結果、吉岡遺跡群は、約4万年前の旧石器時代の遺跡であることが判明しました。
これは、南関東最古級の遺跡で、神奈川歴史博物館の常設展「原始・古代「さがみの古代に生きた人びと」」は、この吉岡遺跡群の石器から始まっています。
また、約2㎞離れた藤沢市用田鳥居前遺跡からの出土した石器と接合した石器もあり、旧石器時代の人々の交流を知る上で貴重な遺跡です。

問11  ④46か所  相模野台地は、全国的にも著名な旧石器時代の遺跡が密集する地域です。 綾瀬市はその相模野台地の南部に位置し、46カ所もの遺跡が発見されています。代表的な遺跡では、吉岡遺跡群、寺尾遺跡、早川天神森遺跡、地蔵坂遺跡などがあります。

問12  ④済運寺
 春日局は3代将軍徳川家光の乳母で、吉岡村をはじめ高座郡内に3千石の化粧料(所領)を得ました。
済運寺の近くに局の御殿があり、家光の代参で大山詣をしたときなどに宿泊していたとも言われています。
こうした関係から局の位牌と局が使った茶臼と茶釜が済運寺にあるのです。

問13  ②1889(明治22)年 
 明治時代中ごろには明治の大合併が全国で行われ、71,314町村(明治21年)が15,859市町村(明治22年)となりました。
1889(明治22)年、深谷・本蓼川・蓼川・寺尾・小園・早川・吉岡・上土棚の8つの村が合併し綾瀬村となりました。
その当時の綾瀬村の人口は4,447名で、世帯数は793世帯でした。
ちなみに、綾瀬町の誕生は1945(昭和20)年、綾瀬市の誕生は1978(昭和53)年です。

問14  ②延命寺(小園地蔵堂)
 江戸時代中頃から全国に小学校ができるまでの約100年間、寺子屋という場所がありました。
小園地蔵堂があるところは、もと東光山延命寺といい、海老名の国分寺の隠居寺だったと伝えられていますが、江戸時代の後期から明治5年の学制の発布により国分学校ができるまで寺子屋として使用されていました。
最も古い筆子塚(寺子屋の生徒が師匠のために建てた墓)は、金子文績さんのもので、生徒が「小園村40人、上早川村12人、国分村2人、下溝中山村(現:相模原市内)6人」という記録が残っています。

問15  ①宮久保遺跡
 宮久保遺跡は、1981(昭和56)年~1984(昭和59)年の綾瀬西高校建設に伴い
県立埋蔵文化財センターによって発掘され、旧石器時代から近世にかけての遺跡が発見されました。
木簡は7世紀~8世紀を中心に紙と並んで使用されましたが、発見された木簡には、「天平5年9月」(天平5年は733年)と書かれています。その木簡の表には稲を納めた鎌倉の人と、裏にはそれを取り扱った2人の役人の名前が記されています。
(当時は紙が貴重であったため、荷札として使われていたと考えられています)

問16  ③長龍寺
 綾瀬市深谷のビバホーム近くにある曹洞宗のお寺長龍寺の境内には、
江戸時代に深谷村を治めていた旗本大橋氏一族の墓石群があります。
大橋氏は寛永10年(1633)から宝暦8年(1758)の125年間深谷村内に所領がありました。
また明治時代には、綾瀬村の中心であることを示す元標が門前に設置されました。

問17  ②巡礼街道
 巡礼街道は、坂東三十三観音の札所を巡る巡礼者が通った道です。鎌倉時代初期に源頼朝により札所が開設され、江戸時代中期には庶民にも巡礼が広まりました。第1番札所は鎌倉の杉本寺で、星谷寺(座間市)と弘明寺(横浜市)を結ぶ参詣道です。綾瀬市内では蓼川北部を通っており、海老名市・座間市や大和市・横浜市につながる道で、塩つけ道とも交差する幹線道路でした。厚木基地内を通っていたと言われていますが現在は不明です。

問18  ①リサイクルプラザ
 道場窪遺跡は、目久尻川中流域の台地上に位置し、現在はリサイクルプラザになっています。
国指定の神崎遺跡、県指定の早川城跡がありますが、市の指定は初めてです。縄文時代中期(今から5000年ほど前)になると、内陸部にも大規模な集落が作られました。中央を広場や墓域とし、周囲を居住域とした環状集落です。この遺跡から竪穴住居跡が28軒も発見されており広大な範囲におよんでいることがわかりました。
また、住居跡からは高さ70cmにもおよぶ大型の土器(かめのような貯蔵用)が出土され、綾瀬最大の縄文土器といわれています。

問19  ④小園子之社
 市内の神社では五社神社、熊野社、小園子之社などが明神鳥居様式で、吉岡神明社、蓼川神社、寺尾子之社などが神明鳥居様式をしています。
なお、両部鳥居という全国的にも数少ない様式をした鳥居があります。鳥居の二本の本柱の前後にそれぞれ控え柱を設け、本柱と控え柱との間に上下二本の控貫(ぬき)をつけた様式の鳥居です。両部鳥居様式をした神社としては、厳島神社(広島県)、氣比神宮(福井県)、熊野速玉大社(和歌山県)などがあります。市内では唯一小園子之社が両部鳥居様式をしています。

問20  ①報恩寺
 寺尾南2丁目にある報恩寺は曹洞宗のお寺で、第二次世界大戦中は「おたすけ観音」といわれ、遠くからも多くの参詣者が訪れました。境内には石造観音菩薩がたくさんあり、当時の人々の願いの深さを知ることができます。

問21   ②蓮光寺
 蓮光寺は1594(文禄3)年に、上土棚村を治めていた遠山安則により創建されました。領主の菩提寺であることから「殿様寺」とも呼ばれています。地蔵堂内に保存されている旧本堂の内陣欄間の彫刻も市指定文化財になっています。

問22  ①五社神社
 五社神社の1650(慶安3)年の縁起には、紀元770年景行天皇の皇子日本武尊が東征を終え帰洛する時この地に地神五代を祀ったのが神社の起こりと書かれています。 このことを記した「日本武尊腰掛石」が鳥居から本殿まで続く参道の右側に鎮座しています

問23  ③武藤角之助
 明治10年代から20年代半ばにかけて自由民権運動が起こりました。1885(明治18)年、国内の民権運動で挫折した大井憲太郎ら自由党一派が、韓国に渡って、親日派の政権を樹立しようとした事件が発生(大阪事件)。この中に蓼川村の武藤角之助も加わっていたのです。武藤は最年少の19歳で、大矢正夫や北村透谷らとも旧知の間柄でした。事件の関係者として武藤も逮捕され投獄されました。服役、出獄後は藤沢市大庭の金子家の養子となり、金子角之助として第2代藤沢町長になり17年間町政を担当しました。

問24  ②矢倉沢往還
 古道の矢倉沢往還は、江戸赤坂御門から駿河国の三島宿までの街道の呼び名です。途中に矢倉沢関所が設けられたことからその名がついたようです。道は東京都渋谷区青山から神奈川県の足柄に至る街道で現在の国道246号とほぼ同じルートで、近世の主要道路の一つです。行先で呼び方がいくつかあり「足柄道・江戸道・厚木道・大山街道」などの呼び方があります。綾瀬市内では海老名市との境の、小園の赤坂~望地を通っていて、赤坂には不動明王が乗った道標があり、「右・国分 厚木」と「左・大塚 鶴間」と刻まれています。