綾瀬ふるさと検定2019 解説
歴史
問1 ①渋谷重国
渋谷重国は、平清盛が源義朝に勝利した平治の乱(1159年)以降は平氏方に立ちつつ、
敗れて流浪した源氏一族の佐々木秀義を保護しました。源頼朝が挙兵すると、佐々木兄弟が源氏方として行動することを黙認するなど、関東での平氏勢力の追放に助力し、鎌倉幕府成立とともに有力御家人に列しました。
渋谷一族は、平安時代後期に綾瀬一帯の荘園「渋谷荘」を統治していた豪族であり、現在の早川城跡は渋谷氏の館跡と伝えられています。
問2 ①日蓮
深谷字落合の森(比留川と落合小学校の間)に「びわみ堂」というお堂がありました。
日蓮上人が1271年佐渡に流刑される途中、このびわみ堂で休息したと伝えられています。
その後、お堂は大法寺に移されました。また、このびわみ堂のあった森は、「中世の墓地」と言われ、板碑(いたび)等が発見されています。板碑は2014年に市指定文化財に指定されました。
落合地区に「びわみ堂」という名前のコミュニティバスの停留所があります。
問3 ④8点
熊野社は上土棚の鎮守です。祭神は熊野三神で、本殿・拝殿・棟札および絵馬は
市の指定文化財になっています。棟札によると本殿は1727年に、拝殿は1830年にそれぞれ再建されています。
市内にある拝殿としては、江戸時代までさかのぼれる唯一の建物です。
大絵馬で最初に奉納されたのは、牛若丸と弁慶五条大橋の図柄の絵馬で、1823年に奉納されました。
※熊野三神(速玉男命(はやたまのおのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、
黄泉津事解男命(よもつことさかのおのみこと)市の指定文化財になっています。
棟札によると本殿は1727年に、拝殿は1830年にそれぞれ再建されています。
問4 ③小園地区
お銀さまは本名「まち」といい、早川村の幾右衛門の娘でした。
三河国の田原藩(現在:愛知県田原市)の江戸屋敷へ奉公に上がり、藩主康友に見初められ、友信(幕末期の藩主 康保の父)という男子を産みました。
お銀さまは、里帰りしたあと二度と江戸屋敷に戻ることなく、その後、小園村の大川家に嫁ぎました。
田原藩の渡辺崋山が残した旅の記録「游相日記」には、お銀さまを訪ねた様子が情緒豊かに描かれています。
問5 ④蓼川・本蓼川
綾瀬市内の塩つけ道は、八王子道とも呼ばれ、大和市福田から本蓼川村・蓼川村を通り座間市栗原に至る広域流通路で、塩のほか種々の物資や人が行きかいました。現在は、厚木基地や東名高速道路の建設で分断され
、
広域流通の機能は失われましたが、その一部が蓼川2丁目や本蓼川に市道として残っています。
蓼川は昔開墾して新田がつくられたところで、立川野だった地名を蓼川新田と改め、後年に新田を取り除き蓼川村となりました。
読みは「たてかわ」と呼ばれてきました。
問6 ③神崎遺跡
神崎遺跡は、弥生後期の遺跡で今から約1800年前の環濠集落(周囲に溝を巡らしたムラ)です。
この地から出土した土器のうち95%以上が東海地方の土器の形態に酷似していることから、
東海地方の人々が200㎞以上の距離を集団移住したことなどが明らかなった貴重な遺跡です。
綾瀬市だけでなく、日本の歴史に必要な遺跡の発見となったのです。2011年2月に綾瀬市初の国史跡に指定され、2016年には神崎遺跡資料館が開館しています。
問7 ②吉岡遺跡群
吉岡遺跡群は、綾瀬浄水場の建設にともなう発掘調査の結果、約4万年前の旧石器時代の遺跡であることが判明しました。
これは、南関東最古級の遺跡で、神奈川歴史博物館の常設展「原始・古代「さがみの古代に生きた人びと」」は、この吉岡遺跡群の石器から始まっています。
また、約2㎞離れた藤沢市用田鳥居前遺跡の出土石器と接合した石器もあり、旧石器時代の人々の交流を知る上で貴重な遺跡です。
問8 ③古東海道
綾瀬には古い道が何本も通り、そのひとつが古東海道と言われています。
当時の役人・旅人、後の武士たちが行きかい、経済ルート、政治ルートとして歴史的にも大変大きな意味を持っていました。
江戸時代に第一の幹線道路として東海道が整備される前、浜田(海老名市)から早川地区北端を通り、小園橋を渡って小園地区をぬける古道は、古東海道と伝えられ、その路傍には中世の石塔が残っています。
道は情報をもたらすメデイアでした。
問9 ④済運寺
春日局は3代将軍徳川家光の乳母で、吉岡村をはじめ高座郡内に3千石の化粧料(所領)を得ました。
済運寺の近くに局の御殿があり、家光の代参で大山詣をしたときなどに宿泊していたとも言われています。
こうした関係から局の位牌と局が使った茶臼と茶釜が済運寺にあるのです。
問10 ②明治22年
この時代には明治の大合併が全国で行われ、71314町村(明治21年)が15859市町村(明治22年)となりました。
1889(明治22)年、深谷・本蓼川・蓼川・寺尾・小園・早川・吉岡・上土棚の8つの村が合併し綾瀬村となりました。
その当時の綾瀬村の人口は4447名で、世帯数は793世帯でした。
ちなみに、綾瀬町の誕生は1945年、綾瀬市の誕生は1978年です。
問11 ②延命寺(小園地蔵堂)
江戸時代中頃から全国に小学校ができるまでの約100年間、寺子屋という場所がありました。
小園地蔵堂があるところは、もと東光山延命寺といい、海老名の国分寺の隠居寺だったと伝えられていますが、江戸時代の後期から明治5年の学制の発布により国分学校ができるまで寺子屋として使用されていました。
最も古い筆子塚(寺子屋の生徒が師匠のために建てた墓)は、金子文績さんのもので、生徒が「小園村40人、上早川村12人、国分村2人、下溝中山村(現:相模原市内)6人」という記録が残っています。
問12 ①宮久保遺跡
宮久保遺跡は、1981(昭和56)年~1984(昭和59)年の綾瀬西高等学校建設に伴い
県立埋蔵文化財センターによって発掘され、旧石器時代から近世にかけての遺跡が発見されました。
木簡は7世紀~8世紀を中心に紙と並んで使用されましたが、発見された木簡には、「天平5年5月」(天平5年は733年)と書かれています。その木簡の表には稲を納めた鎌倉の人と、裏にはそれを取り扱った2人の役人の名前が記されています。
(当時は紙が貴重であったため、荷札として使われていたと考えられています)
問13 ③長龍寺
深谷のビバホーム近くにある曹洞宗のお寺長龍寺の境内には、
江戸時代に深谷村を治めていた旗本大橋氏一族の墓石群があります。
大橋氏は寛永10年(1633)から宝暦8年(1758)の125年間深谷村内に所領がありました。
また明治時代には、綾瀬村の中心であることを示す元標が門前に設置されました。
問14 ②椎(しい)
五社神社は平氏の一族でその後鎌倉幕府の御家人になった渋谷一族の総鎮守でした。
本殿の裏側に椎の木の御神木があり、その椎の大木は1981(昭和56)年に市内で初めて市文化財に指定されています。また本殿と棟札9枚も1999(平成11)年に市文化財に指定されました。
境内には、日本武尊が腰かけたと言われる日本武尊御腰掛石や、尾ノ井(境内の形が亀の甲に似ていて池がその尾の位置にある)もあります。
1984(昭和59)年5月、当時の皇太子浩宮殿下が訪れました。
問15 ④新武者寄橋
現在の市役所と綾西を結ぶ道路の間に、武者寄橋があります。
昔、渋谷一族が早川城から出陣するときの武者の集合場所だったといわれていることから名づけられました。
昭和59年になって隣に新しくバイパス的に造られたのが新武者寄橋で、「早川城のあった頃、
兵の集まる場所に使われた」として、1990(平成2)年かながわの橋100選に選ばれました。
ここからの富士山の眺めがとてもよいです。