将界ニュースが伝えた北夕の勝負
アプローチは旧青葉町付近から左岸を下る。
北夕/北菱鹿島の境目がすでに明確でないため、
どちらの施設かは断定せずに探索していく。
今回は2鉱区に渡り、
水力輸送管、送炭用コンベヤ、ダイステーブル主選機、ズリ山と巻上機、千鶴坑、鹿島側火薬庫、
北夕側火薬庫、専用水道取水堰、そして中央排気立坑などを紹介したい。
北菱鹿島炭鉱では昭和35年11月から、北夕炭鉱ではその後、
坑外索道運搬を水力輸送に切り替えた。
これは夕張川対岸の選炭施設に送炭する、その水力輸送管の基礎だ。
当初の川を渡る索道は50馬力原動機による運搬距離380m(夕張川160m横断)
120m/min、運搬能力17〜22t/時間、搬器12台、索道夫16名(8名×2交代)で運用していた。
石炭は原料炭であり精炭は洗粉炭(15o以下)で比重が小さかった。
そして輸送距離は400m以内、実揚程6mのため低揚程のポンプ1台で、
つまり、軽くて小さな石炭は水力輸送が可能だった。
精炭は37kw荏原渦巻き水力輸送ポンプにて30t/h、流速2m/secにて、
輸送管(5インチ(130mm)×400m)を通って川を渡り、対岸のローヘッドスクリーンにて脱水、
その後貯炭ポケット(405t)にて保管した。
対岸の橋脚基礎を望む。
輸送実績は昭和35年5月中旬に工事着手、昭和35年9月完成。
冬季間の凍結防止のため、主要ポンプは室内で蒸気暖房を行った。
当時の水力送炭用のパイプである。
水の確保も労力の一つだったと思われる。
木製電柱が残る。
輸送管は昼食時や故障時に1時間以上停止する。
岩綿保温帯75mmでパイプを覆い、保温し、零下19℃で1時間30分放置しても不凍であった。
ここは索道時代の送炭用ベルトコンベヤーの基礎施設のようだ。
付近には基礎や鋼製の部材が散発する。
こちらは主選機などの選炭施設の基礎のようだ。
北菱鹿島炭鉱では、昭和35年11月に月産5,000t計画時から15,000tに出炭規模を拡大するため、
合理化改善工事を行った。
ベルトコンベヤーで容量100tの原炭ポケットに入れられた石炭は、
楕円振動機により15mmを境に選別、塊はクラッシャで再び粉砕し、
主選機ダイスターテーブル(10t/h×3台)にて水選を行う。
ダイスターテーブルは水を流しながらテーブルを左右に揺らし、
石炭とズリを比重の違いで自動的に分ける選炭機。
軽い上質の石炭は上に、重いズリは下側に流れ、
主選機で分けきれない細粒炭を仕上げる装置である。
ここからはズリ山頂上を目指す。
恐らく輸車路や巻上に関する装置が残存していると思われる。
輸車路(ゆしゃろ)は石炭やズリを山上へ運ぶための専用路のこと。
残る輸車路も人工的な盛土と巻上可能な勾配の道が見える。
かなり登ると、植生の疎らなズリ山の様相となってきた。
北夕鉱業所は昭和33年5月には褶曲の激しい平安8尺層による採炭困難に直面、
閉山の危機となった。
しかし従業員の半数が退職した上、賃金10%ダウンという苦しい状況になりながらも、
労使協調して新炭層の探鉱を行う中で、
昭和34年3月14日 早朝に待望の10尺層を発見した。
この炭層は中小炭層には珍しい富鉱で、
埋蔵量は650万t、50年間は余力があると称された。
再建を果たした北夕炭鉱は大手炭鉱同様に鉄柱カッペ式の採炭方法へと合理化の道を進むこととなる。
北菱産業(株)らしき社章が残る。
閉山の危機から3年後の昭和36年には出炭量が2倍となり1万t産出を目指して合理化が進む。
隣接の北菱鹿島炭鉱にならって、選炭場から川向の貨車積みポケットへの運搬に、
水圧を利用したパイプでの送炭する水力輸送を計画した。
電柱が倒れて朽ちている。
ここまで電源が来ていた証であり、施設への期待が高まる。
半円型に加工された鋼材や基礎が増加してきた。
北夕炭鉱の閉山は昭和45年3月14日。
富鉱10尺層の発見は昭和34年3月14日。
富鉱の発見も閉山の決定も同じ3月14日。
炭鉱の歴史は同じ日に息を吹き返し、同じ日に静かに止まったこととなる。
ズリ山頂上付近には巻上装置であるモーターや、
ワイヤードラムを設置した基礎が残る。
基礎は重厚で強力な巻上機が設置されていたようだ。
奥では巨大な電動機、モーターが鎮座していた。
ブラシでもなく放熱用のフィンが多数ある。
もしかするとかなり古い交流モーターかもしれない。
誘導電動機、モーターは内側に固定子巻線(ステーターコイル)があるので、
恐らく交流の8極タイプのようだ。
これは大正の機械かもしれない。
銘板はかなり劣化している。
辛うじて読めるのは、誘導電動機、50馬力・特○・型式SBG・
3300ワット・750rpm・工場長崎・大正14年4月・三〇○機株式会社。
大正14年当時に長崎で電動機を製造していたのは、
三菱長崎造船所電気部で、
これは後の三菱電機(株)となる。
ズリ山を下山し、再び鉱区内を探索する。
目的は鹿島側の火薬庫である。
千鶴坑付近の遺構となる。
コンクリート製の基礎が周辺に残る。
千鶴坑東斜坑は深さ650m。
250馬力巻上機をもって原炭が引き揚げられた。
付近の茂みの奥には人工的な盛土、土盛りがある。
その平場には人工的な木材がある。
どうやら北菱鹿島炭鉱の火薬庫跡のようだ。
マウスon 火薬庫
付近は土提で囲まれており、
2.3の火薬庫や導火線庫が存在したようだ。
マウスon 土提
鉱区の上流域には区画整備された植林の一画がある。
これはかつての炭住街だ。
今は街が存在したその面影もない。
炭住街には180戸、
従業員は職員60名を含めて350名と、
その家族がここに暮らしていた。
炭住街の一角にはフランジ付きの太い配管が朽ちている。
これは昭和36年10月に周辺従業員住宅に給水するために敷設した、
専用水道の機材のようだ。
これは無名沢を堰き止めた取水堰の跡だ。
貯水を200mあまり導水して、
沈殿槽を通し薬品処理し220世帯に給水していた。
炭住街から離れた山中に人工的な盛土がある。
恐らく火薬庫。
位置的に北夕炭鉱所属だと思われる。
火薬取締法では土提に設ける通路について、
遮蔽効果を損なわないようにとの規定がある。
これが外部から火薬庫に向かう通路だ。
土堤以内にすでに火薬庫の建屋は存在しない。
万が一の爆発の際に被害を最小限に食い止めるのが土提の役目で、
衝撃と破片を外部へ飛散させないための防護壁である。
火薬庫の壁や窓、釘などについても細かな規定があり、
土提の高さや盗難対策においても詳細に取り決められていた。
現在も残る土提は炭鉱が操業していた時代の安全管理の思想を示す貴重な遺構であり、
爆薬や雷管を扱う現場がいかに厳重な対策を講じていたか、
如実に物語っている。
更に森を進むと巨大な廃祉が現れる。
目的の中央排気立坑だ。
ここは排気用扇風機やその駆動用モーターの設置場所だ。
扇風機は150kwのプロペラファンで、
3,200m3/minの能力を有していた。
着工年は昭和37年9月であり通気専用の排気立坑であった。
深度は350m、内径3.6mであった。
縦の筒が地下350mに及ぶ立坑で、
手前の管が『ファンドリフト」と呼ばれる風の通り道となる。
マウスon ファンドリフト断面
坑口が塞がれたのは閉山後で、
二股に分かれているのは緊急時に入気方向に風向きを変更するための予備坑口だろう。
設置されたシロッコファンは逆回転させても風向きが変わらない。
片方の坑口を開閉することで入排気を切り替えたのだ。
内部は既に密閉されており、
風も通らない。
排気立坑は地下坑道の空気を地上に排出するための通気設備の要である。
炭鉱の坑道内の採掘作業に伴い、
メタンなどのガス吐出、温度上昇などの対策として通気が必要となる。
近代将棋という雑誌の1969-07号では「将界ニュース」のなかで、
5月に北夕鉱業所長杯争奪戦として、各級の成績が小さく掲載されていた。
炭の匂いが漂う職場で指された一手は、もう誰も覚えていない。
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