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図子善信

昭和16年 香川県丸亀市生まれ

昭和35年3月 兵庫県立芦屋高校卒業
昭和39年3月 関西学院大学法学部卒業
昭和41年3月 関西学院大学大学院法学研究科修了
昭和41年4月 国税庁入庁 
昭和46年7月 大蔵省国際金融局企画課企画係長
昭和48年7月 紋別税務署長
  略
平成2年7月 国税局総務部長
平成3年7月 石油公団資金部長(出向)
平成6年7月 福岡国税不服審判所長
平成8年4月 国税庁退職

平成8年4月  久留米大学法学部教授
平成16年10月 法学博士
平成24年3月 久留米大学退職
平成24年4月 久留米大学名誉教授 久留米大学大学院客員教授
平成27年3月 久留米大学大学院客員教授退任

税理士経歴
平成8年8月21日 税理士登録 九州北部税理士会久留米支部
平成27年5月12日 東京地方税理士会に転入 緑支部


メールアドレス
 zushi_yoshinobu@krf.biglobe.ne.jp






図子の名前の由来と根拠

 「図子」は、横丁、路地、小路などと同様に、普通名詞である。ただ、京都以外では図子という言い方はないようである。
 平安京、京都は長安の都に倣い、道が碁盤の目のように南北の道と東西の道が一般である。しかし、このような道だけでは、直線的に目的地に行けないことから、例外的に斜めの道が設けられている。このような道を図子という。辻子(ずし)ともいう。「京都事典」がこのように解説している。京都の人に聞くと、鉄砲の図子というような呼び方をするとのことであった。
 司馬遼太郎は、「竜馬が行く」の中で、「京の図子(横丁)で遊ぶ子供らも」新撰組のことをこう歌ったと書いている。多分、図子は狭い道で、横丁、路地という感じなのだろう。(インターネットの情報によると、通り抜けられる路地を指すようである。)
 現在、京都市には図子という名を含む町名が、いくつか残っている。
 今図子町、元図子町、中御霊図子町、常盤井図子町、大峰図子町、瓢箪図子町、了頓図子町などである。

 図子家が何故図子という性なのかについては、言い伝えがある。
 図子家は元々藤原一門であったが、平安京の造営に当たり一定の役割を果たし、平安京に遷都後、時の帝(桓武天皇)よりその功を賞され、造営に関わる図面の図とその年が子の年であったことから図と子を合わせて図子の姓を賜ったと言われている。

 我が家の図子家は、明治維新時は香川県丸亀市に住み、丸亀藩京極家の家中であったが、元々は京極家に仕える以前から讃岐にきて土着した地侍であった。享保年間に京極家が丸亀に転封された時に、京極家の家老千田一馬氏の仲介により京極家に仕官したと伝わっている。
 讃岐に来た理由は、鎌倉時代に鎌倉より日蓮の弟子が讃岐の地頭に招聘された時に、その弟子の護衛をして来たとされている。讃岐には高瀬というところに日蓮宗の四国の総本山である大坊という寺があるが、そこの筆頭檀家が図子家であったことから、本当のように思われる。我が家は、その分家の分家である。
 藤原一族であった図子が何故鎌倉に移っていたのか、四国に移った図子以外に図子の系統が残っているのかについては不明である。

 また、東京の浅草の神社の祭りの氏子の単位として図子が使われている。例えば、秋田図子、宮田図子など、組のような意味でつかわれている。同じく、東京の玉川神社の近くでは、一区画を図子とよぶ習わしがあったが、その意味は不明との宮司さんのお話しがあった。図子は京都の通りの名称から町名に使われ、ひいては一定の地区単位に使われるようになったのかも知れない。
 





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