坐禅の話
寒い季節には朝起きるのが辛い。そのため、うつらうつらしながらあと五分寝ていようとか、そのうち誰か起こしてくれるだろうとか、いろいろと妄想をかきながら布団の中で籠城することになる。
朝は誰しも心が弱くなっており、その弱い心に負けてしまうのである。
だから、朝おきるときの姿を見れば修行の程度がたいてい分かる。布団の中でグズグズしている人は、自分に負けている人である。
「眠いのも妄想のうちだ」と先輩から言われたことがあり、「眠いのは生理的な要求だ」とその時は思ったが、「たしかに眠いのも妄想のうちだ。それに打ち勝つことができるのだから」とやがて納得した。
坐禅の道場には接心(せっしん)という修行がある。これは一週間ひたすら坐禅に打ちこむという修行期間で、修行者の中にはこの間ほとんど眠らずに坐り通す人もいる。
睡眠時間が二時間を切ると私は軽い幻覚を見た。まぶたの裏にチラチラと動くものが見えてきて、睡眠時間が短くなる程はっきりしてくる。
そのような極度に少ない睡眠時間でありながらも、接心中にはすぐに起きられる。坐禅に集中していると余計な思いが漏れ出てこないからで、ただし本人ははっきり目が覚めているつもりでも寝ぼけていることがよくあった。
ところが接心が終わると、充分に寝ていても朝起きられない。起きる時は起きる、寝る時に寝る、という当たり前のことが難しい。
心の中に漏れ出してくる迷いのことを煩悩(ぼんのう)という。煩悩は漏(ろ)とも呼ばれるが、それは作りの悪い屋根が雨漏りするように、作りの悪い心に煩悩が漏れ出してくるからである。坐禅は穴をふさいだり、中にたまった水を捨てたりする作業である。
調身(ちょうしん)
坐禅は「体を調え、呼吸を調え、心を調える」の三段階からなる。これを調身、調息、調心ともいう。
調身には、健康的な生活を送ることで体調を調えることも含まれるが、坐禅の実践においては正しい姿勢を身に付けることである。
「坐相正しければ心これに従う」という言葉があるように、姿勢が正しければ、心もすっきりと正しくなる。逆に姿勢が乱れると心も乱れ、心が乱れると悩みや弱い心につけ込まれるようになり、そしてさらに姿勢が乱れる。
良い姿勢は一生の財産ともなる。「家柄は背筋に現れる」という言葉のように、私たちは人を判断するのに、相手の顔つきや話の内容だけでなく、姿勢も判断材料にしている。姿勢が乱れていると、人に悪印象を与えるだけでなく、精神的にも弱い人間だと思われる。
姿勢を正しくするかなめは腰と首である。人間の背骨は腰と首の部分がよく曲がるようにできているため、この二ヶ所で姿勢がくずれるからである。
坐禅をするときには、頭の先から五円玉を落としたら、お尻の穴からチャリンと出てくるように真っすぐに坐れ、とよく言われるが、これは定規を当てたように真っすぐということではない。
人間の背骨は魚の背骨ように真っすぐではなく、右側から見た場合ゆるやかなS字曲線を描いている。この曲線が理想的な形になるようにすれば、背筋が真っすぐになったように体感する。だから背中を柱に押し当てて一直線に伸ばしても坐禅の姿勢にはならない。
坐相を決める第一は、しっかりと腰を入れることである。腰が少しでも引けると心がゆるむ。腰を入れるには、一度、体を前に倒してから、腰はそのまま残して頭を突き上げるように上げていくとよい。
おヘソの後ろの背中に手を当てたとき、ゴツゴツとした背骨にさわるようだとまだ腰が伸びていない。充分に腰が入れば背骨が中にひっこむ。
つぎに首を真っすぐにする。あごを引き、頭の先を天井にぶつけるように伸ばすと、首の後ろの線が真っすぐになる。
そして肩の力を抜く。心がうわずると自然と肩に力が入る。だから腹を立てたり恐怖におそわれたりしたときには肩に力が入っている。肩の力をぬき重心をお腹の底に落とせば心のお荷物も落ちていく。
眼は一メートルから二メートル前方の床に視線をおとす。すると眼を半分閉じたような感じになるので、これを半眼(はんがん)という。だから故意に薄目を開けた状態にしているわけではない。
そして力を抜いて眼をくつろがせる。眼は全身の神経活動の四分の一を消費しているといわれ、眼がくつろぐと心身ともに楽になり、顔の緊張もとれて自然な表情にもどる。気がつかないうちに、こわばった表情になっていることが多いのである。
眼はつぶってはいけない。眼を閉じると眠くなるし、禅定力も身につかず、また妄想をかきやすくなる。
たとえば眼を閉じて読経すると、雑念が入ってお経をまちがえやすくなる。そのため私は暗唱できるお経でも経本を見るようにしているし、経本がないときは線香の火を見ている。そらでお経を読むと、心もうわの空になりやすいのである。
口はしっかりと閉じ、奥歯を軽くかむように合わせる。寝ているときやボンヤリしているときには上下の歯は少し離れているが、これでは具合が悪い。
「歯を食いしばって頑張る」という言葉のように、奥歯を噛みあわせると心が強くなり、かなりの試練に耐えられる。ただし力を入れすぎると歯がぐらついてくる。私は接心で歯をぐらつかせたことが何度もある。
頭の先からお腹の底へ、そして地球の中心へと、ストンと気が通るように坐らなければいけない。どこかに気が滞ると、眠くなったり、妄想をかいたり、肩がこったりして、坐っているのが嫌になる。
気を通すには姿勢だけでなく重心も大切である。重心は重力によって決まるから、そのため地球の中心に向かって気が通ることになる。ストンと決まるところは一カ所しかない。
また胃のあたりに力が入ると胃を悪くする。私も坐禅が原因の胃炎に苦しめられたことがある。
調息(ちょうそく)
呼吸は自然に任せておく。短い呼吸よりも長い呼吸のほうが心は落ち着くが、意識して呼吸を長くするとかえっておかしくなる。
慣れてくれば呼吸はしだいに長くなるし、重心がお腹の底に落ちてくれば自然と腹式呼吸になってくる。坐り初めに腹式呼吸を数回大きくおこなうと、腹式呼吸に入りやすくなる。
ほ乳類は、人間でもゾウでもネズミでも、体の大小に関わらず一生のあいだに約五億回の呼吸をするという。ちなみに心拍数は呼吸の四倍なので、約二十億回で寿命が尽きることになる。
小さな動物はたいてい呼吸が短く、寿命も短い。大きな動物はたいてい呼吸が長く、寿命も長い。つまり小さい動物は短い呼吸で早く寿命を使い果たすことになる。だから長息(ながいき)は長生きに通じるという言葉は理屈に合っている。
坐禅のときの呼吸数は、熟練した人は普通の人の半分から三分の一に減っており、坐禅をしていないときも少ない。だから坐禅をすれば長生きするという言葉も、必ずしも誇大広告ではない。
坐禅中の体の代謝量は、人間が生きていくのに最低限必要とされる基礎代謝よりも、さらに二割も少なくなっているという。これは脳がくつろいだ状態にあるからで、意識ははっきりしているが脳は休息しているのである。
体を動かした直後に坐禅をすると、体が酸素を必要としているため、呼吸が調うのに時間がかかる。タバコを吸っても呼吸は短くなり、この場合はさらに時間がかかる。これは一酸化炭素の影響だと思う。だから愛煙家といえど少なくとも二時間前から禁煙しなければいけない。
それと呼吸の音で周囲に迷惑をかけないように気をつけてほしい。風や雨の音とちがって人間の出す音は耳障りなものである。
「ひと息坐禅」という気分転換法を大森曹玄老師に教えてもらったことがある。仕事の合間などに、しっかりと腹式呼吸を一回すると、心の中がカラッポになり新たな気分で仕事ができる。
調心(ちょうしん)
心が調えば、すべてが解決する。だから調心は人生の最重要問題である。
心の調える方法として、初めて坐禅をする人に対しては数息観(すうそくかん)を勧めることが多い。これは吐く息と吸う息を、目で追うようにしながら数える方法である。
呼吸の数え方にはいくつかあるが、吐きながら「ひとつ」、吸いながら「ふたつ」、と数えるのがやりやすいと思う。十(とお)まできたら一つに戻り、途中で分からなくなったときも一つに戻る。ただこれだけのことだが、一から十までよそ見せずに数えるのは難しい。
数えるのが嫌になったり、数える必要がないほど心が安定してきたら、数えるのを止めてただ呼吸を目で追うようにする。これを随息観(ずいそくかん)という。
さらに呼吸を目で追うのもやめて、ただ坐るのを只管打坐(しかんたざ)という。只管打坐は「ただ坐る。それでおしまい」などと言う人もあり、単純で良さそうに思えるし、道元禅師も勧めている。
たしかに「それでおしまい」になって「ただ坐る」ことができれば、只管打坐は究極の坐禅であるが、坐るときの手掛かりがないため妄想に負けてしまう人が多く、初心者にはあまり勧められない方法である。
坐禅修行では、よそ見をしないことが大切である。桜が咲こうが、月が出ようが、雪が降ろうが、いっさい相手にしてはいけない。だから気分転換は不要である。心が散乱して困るという人は、よそ見をすることと、食事の量に問題がある。つまり食べ過ぎもよくない。
また緊張感も大切である。ボンヤリしていては坐禅は妄想の巣になってしまうから、気迫に満ちた坐禅をしなければいけないが、力みすぎると今度は心が空回りしてしまうから、ちょうどいい所を自得しなければいけない。
坐禅は微かな心の動きまではっきりと自覚できるすぐれた修行方法である。ところが繊細なだけに強烈な妄想が出ている時には対処できないことがある。
たとえば人と言い争いなどをして心が強く乱れているときには、坐禅の方が負けてしまうから、そういう時は写経とか読経などの方がよい。思いっきり体を動かすのも効果大である。
最後にもう一つの大切なこと、それはよい指導者を見つけることである。「正師を得ざれば、学ばざるが如し」と道元禅師は言っているし、「三年学ばずして正師を求めよ」という言葉もある。
坐禅修行を志す人は、三年かけて慎重に指導者を探さなければいけないのである。
参考文献
「ゾウの時間ネズミの時間」本川達雄 中公新書 平成四年
もどる