幽霊の話
鈴鹿山脈は滋賀県と三重県との県境に長くつらなる山脈である。その主峰の御池岳(おいけだけ)へ登りに行き、真(しん)の谷という小さな沢でキャンプしたときのことである。
この谷は滋賀県側へ下りるにも三重県側へ下りるにも、山を一つ越えなければならないという山奥にある。谷の至るところにコバイケイソウが、野菜畑かと思うほどたくさん芽吹いている季節であった。
日が暮れて夕食を食べてしまうとすることがなくなり、早々と寝袋にもぐり込んだ。天気に恵まれ風もなく山は静かだった。ところが夜中の十二時すぎガサッという物音で目が覚めた。テントの中にいると外の微かな音もはっきりと聞こえてくる。うすい布一枚のテントは、音に対しては全く無防備なのである。
外をうかがうと、何かがテントのまわりを歩き回っているような気配がする。「クマか。それとも幽霊か。そういえば遭難者の碑が近くにあった」。そう考えると急に背筋が寒くなり、金縛りにあったように体が動かなくなった。しかもトイレへ行きたくなり、テントの中で小さくなっている訳にもいかない状況になってきた。
そこで、「こんなことではいけない」と自分を励まし、寝たままで心を調えにかかった。力を抜いて体を真っすぐに伸ばし、「ひとつ、ふたつ、みっつ」と静かに呼吸を数えていると、凍りついていた心が平静な心に戻っていく。平常心の状態を把握していると立ち直りやすい。
それからゆっくりと起きあがり、テントの外を点検したが何も変わったことはなかった。ただ天気が良くて冷えこんできており、その寒さも心に悪影響したようで、服を着こんで暖かくなると朝までぐっすり眠ることができた。
都市に住んでいる人には暗闇の恐ろしさは決して実感できないが、闇は恐怖心を呼び起こし、恐怖心は心と体に大きな影響を与える。「こわいと思うからこわいのだ」とよく言われるが、その通りだとしても恐怖心を克服するのは難しい。
雲水修行をしていたとき、夜になると裏山を歩きまわる先輩がいた。まっ暗闇の道もろくについていない山の中を散歩する人は、雲水といえど他にはいない。散歩の目的は正念相続(しょうねんそうぞく)の鍛錬である。一度、山のなかで野犬にとり囲まれたことがあり、大きな木を背にして犬の群をにらみつけ、ボスとおぼしき犬を一喝したら、サーと群が逃げていったと言っていた。
「怖いものがあるうちはまだ修行が足らん」とはその先輩の言葉で、これは誇張ではなく、臍下丹田(せいかたんでん)に気を集めて精神統一していれば、恐怖心は出てこないのである。
「心外(しんげ)に魔障(ましょう)なし。無心なるは即ち降魔」という言葉がある。無心というのは心の中に何もないことをいうのであり、すべては心が作り出しているのだから、無心でいれば幽霊も出てくる場所がないのである。ただし一朝一夕にできることではなく修行が必要である。
また般若心経の陀羅尼(だらに)は降魔の力を持つとして古来有名なので、困ったときにはこれをとなえるのもいいと思う。何が出てきても「相手にせず邪魔にせず」で陀羅尼をとなえていれば、幽霊もとりつく島がないのである。
なお、こわがりな人間になっても良いことは何もないから、恐怖映画など見ない方がよく、子供をこわがらせるようなこともしてはいけない。
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