自らを拠り所とせよ
インドの北部に、釈尊が法華経を説いた場所とされる霊鷲山(りょうじゅせん)という山がある。高さはそれほどないが山頂からの眺めのすばらしい岩山であり、変化しない国と言われるインドのことなので、釈尊の時代とそれほど変わらない景色を今も見ることができる。この山は釈尊のお気に入りの山だったようである。

涅槃経(ねはんぎょう)によると、釈尊はこの山から最後の旅に出発された。旅の目的地は生まれ故郷のカピラ城だったと思われるが、最後の伝道の旅は釈尊の死によってクシナガラで終わった。その旅の途中、釈尊は侍者のアナン尊者に、自らをともしびとし、自らをより所とせよ、という有名な言葉を説かれた。

「自らをともしびとし、自らをより所とせよ。自己のより所は自己のみである。他にいかなるより所もない。自らの心を正しく調えたとき、本当のより所を手に入れることができる」。これが釈尊の教えの基本なのである。

都市に住む人には理解できないと思うが、暗闇は恐ろしいものである。だから月の出ていない闇夜には、小さなロウソクの灯りといえど非常に貴重なものであった。暗闇で小さな灯りをより所にするように、苦しみに満ちたこの世界を自らをより所にして歩いて行きなさい、と釈尊はいうのである。ならば、そのより所はどうすれば手に入るのかというと、「自らの心を正しく調えた時、本当のより所を手に入れることができる」というのである。

自分の心とは、瞬時も離れることなくお付き合いしなければならない。その心が自分でも持て余すようなわがままものであったら、苦労するのは自分自身である。だから心を調えることは何よりも大切なことである。そして来生というものが有るならば、自分の心にふさわしい所に私たちは生まれ変わって行くことになる。そのため正しく調えられた心は、この世とあの世の二世(にせ)にわたるより所であるとされる。

釈尊はブッダガヤの菩提樹の下で、暁の明星を見たときに悟りを開き、人生のすべての苦しみを解決された。悟りとは自己の本心に目覚めることであり、本心に目覚めた人のことを仏さまという。そして自己の本心のことを真実の自己ともいう。より所とすべき自己はこの真実の自己である。

一休さんにこんな歌がある。「我のみか釈迦も達磨も阿羅漢(あらかん)も、此の君ゆえに身をやつしけり」。この歌にある「此の君」は真実の自己を意味している。此の君に目覚め、それを伝えていくために、多くの人が苦労したのである。

妙心寺の管長をされた山田無文老師にこんな話がある。あるとき小さな子供が老師に質問した。「人間は何のために生きているのですか」。この生意気な質問にたいして老師は、「人間は仏さまになるために生きているんだよ」と答えられたという。私たちの一生は真実の自己に目覚めるための道中であり、すべての生き物は成仏の過程を生きている、というのである。

哲学者の西田幾太郎(きたろう)氏は、坐禅修行の体験から「西田哲学」と呼ばれる哲学体系を作った人である。彼は「善の研究」という本の中で、「本当の善とは何か」を追求しこう結論している。「真の善とはただ一つあるのみである。即ち真の自己を知るということに尽きている」

この本のために京都の紙の値段が上がったと言われるほど広く読まれた本なので、もう少し内容をご紹介したい。

「我々の真の自己は宇宙の本体である。真の自己を知ればつとに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と瞑合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きている」

「我々が内に自己を鍛錬して自己の真体に達すると共に、外自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合うようになる。之を完全なる善行というのである」

「いかに小さな事業でも常に人類一味の愛情より働いている人は、偉大なる人類的人格を実現しつつある人といわねばならない」

     幾山河こえさりゆかば

ふとした折りに、何か大切なことを忘れているのではないか、本当に求めるものが何かあるのではないかと感じることがある。その心の声に耳を傾けなければいけない。

若山牧水という旅の好きな歌人がこんな歌を残している。「幾山河(いくさんが)こえさりゆかば寂しさの、はてなむ国ぞけふも旅ゆく」。旅をすると日本は山国だとよく分かる。どこへ行っても果てしなく山河が続いている。「この山河をどれだけ越えれば寂しさのなくなる国があるのだろうか。その国を求めて今日も旅をする」というのである。

何かを求めて人は旅をする。長いあいだ探し求めていたものが、どこかで見つかるような気がして、遠くの町や山を歩きまわる。しかし求めるものは見つからない。日本でだめなら海外へ行こうと世界の果てまで出かけるが、やはり見つからない。自分が何を求めているのかも、それがどこにあるのかも知らないのだから、見つかるはずがないのである。

中学の国語の教科書に同じような内容の詩が載っていた。

「山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう

 われ人ととめ行きて、涙さしぐみ帰りきぬ

 山のあなたのなお遠く、幸い住むと人のいう」

「山のあなた」は「山のかなた」である。幸せがあるかもしれないと、山のかなたにあこがれる。ところがどこまで行っても同じような人間が住む世界が続いているだけであり、宇宙の果てまで行っても同じことである。私たちが求めているものは、山のかなたを探しても見つかることはない。自分の心が本当の自分の心を求めているのだから、心の中を探さなければならないのである。

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