欲の話
「マシュマロ・テスト」というおもしろい実験のことが本に載っていた。四歳の子供にマシュマロをひとつ与え、「十五分したら戻ってくるけど、それまで食べずに待っていたら、もう一つマシュマロをあげる」と約束し反応をみる、というのがその実験内容である。
この実験によると三分の一の子供は、実験者がいなくなるとすぐにマシュマロを食べてしまい、最後までがまんできた子供は数人しかいなかったという。その数人の子供は、目をつぶってマシュマロを見ないようにしたり、歌を歌ったり、机のうえに顔を伏せたりして欲望と戦ったという。四歳の子供にとって、目の前のマシュマロに手を出さないことは、至難というべきことなのである。
この実験ですぐに食べた子供と、最後までがまんした子供を、十八歳になるまで追跡調査したところ大きな差が出た。最後までがまんした子供は、社会性においても、人間関係においても、ストレスや困難に対処する能力においても、さらには学力においても優れていた。
反対にすぐに手を出した子供は、精神的に問題のある子供が多かった。ささいなことでも心が動揺しやすく、対人関係でいざこざを起こしやすく、強情でありながら優柔不断で、自分をダメな人間だと考える傾向が強い、などの問題を抱える子供が多かったのである。
釈尊の侍者を長年つとめたアナン尊者はたいへんな美男子だったといわれ、女性に誘惑された話が経典に載っている。そのアナン尊者があるとき釈尊に質問した。「婦人に対して、私はどのように対処したらよいのでしょう」。これは女難の相のあるアナン尊者の質問なので、目の前に転がっているマシュマロにどう対処すべきか、という問いだったと思う。釈尊答えていわく。
「アナンよ。見てはならぬ」
「もしも見てしまったら、どうしたらよいのでしょう」
「アナンよ。話をしてはならぬ」
「もしも向こうから話しかけてきた時には、どうしたらよいのでしょう」
「そういう時には慎んでおれ」
心を迷わせるものに対しては、「見ざる、聞かざる、言わざる」と「慎み」で対処せよ、というのが釈尊の解答であった。
欲の始まりは心の中にフッと浮かんできた衝動であるから、欲を制御するには衝動を制御しなければならない。「心に従うのではなく、心を従えるのだ」とよくいわれるが、それには衝動をできるだけ起こさないようにすることと、起こしてしまったときの対応が大事なのである。ただし心を従えるのは百万の敵に勝つよりも難しいとされる。
禅は意思の宗教といわれるように、坐禅修行は願心と意思の力で突きすすむ修行であり、また坐禅をしていると意思は強くなる。禅定力が衝動の発生を抑制してくれるからであるが、その状態を日常生活すべてに及ぼしていくのは難しい。ふだんの生活は習慣に支配されやすいからであり、従ってよい習慣を身につけることも大事なことである。
人間はさまざまな欲を持っているが、欲そのものは善でも悪でもない。喉が渇いて水を飲みたいというのも、修行して自分を高めたいというのも、人を助けたいというのも、欲といえば欲である。しかし欲は悪い意味に使われることの多い言葉なので、人助けや修行に精進する欲は菩提心と呼ばれる。
悪い意味の欲に限定すれば、「欲があるから苦しみがある。欲がなければ苦しみがない」という言葉は正しいと思う。人生の苦しみの多くは不適切な欲から生じる。だからたとえ生きるために必要な欲であっても適量を知ることが大切である。遺教経(ゆいきょうぎょう)が説く小欲と知足の教えは、苦悩を解決と、安楽な生活のための妙薬なのである。
「まさに知るべし。多欲の人は利を求むること多きがゆえに苦悩もまた多し。小欲はよく諸々の功徳を生ず。小欲を行ずる者は心すなわち坦然(たんねん。やすらかなこと)として憂畏(うい。うれいおそれ)する所なし。ことに触れて余りあり。常に足らざること無し。小欲ある者はすなわち涅槃あり。これを小欲と名づく」
「もし諸々の苦悩を脱せんと欲せば当に知足を観ずべし。知足の法は即ちこれ富楽安穏(ふらくあんのん)の所なり。知足の人は地上に臥すといえどもなお安楽なりとす。不知足の者は天堂に処すといえどもまた心にかなわず。不知足の者は富むといえどもしかも貧し。知足の人は貧しといえどもしかも富めり。これを知足と名づく」
参考文献
「EQ こころの知能指数」p131 ダニエル・ゴールマン 土屋京子訳 講談社 1996年
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