見性登山道入門
見性(けんしょう)とは自己の本心本性を見ることをいい、いわゆる悟りを開くことを意味している。だから見性登山道というのは転迷開悟を目的とする山歩きのことであるが、私のかってな造語であるからこの言葉を知る人は少ない。山の霊気を胸いっぱいに吸いこみながら、四季折々さまざまに変化する大自然のなかで身心を鍛錬する歩行禅、それが見性登山道である。
古来、釈尊を初めとしてたくさんの人が山に入って修行をした。たとえば釈尊成道の地ブッダガヤの近くに前正覚山(ぜんしょうがくさん)という山がある。この山の名は釈尊が悟りを開く前に、この山の洞窟で修行したことから付けられたのであり、高さ三百メートルほどの低山であるが霊気にみちた岩山である。釈尊はヒマラヤで修行したと思っている人が多いが、実はちがうのである。また釈尊が法華経を説いたとされる霊鷲山(りょうじゅせん)は、鷲が羽根をひろげたような姿の名山であり、釈尊が好んで滞在した山である。釈尊も山が好きだったのである。
寺院の名前には瑞龍山(ずいりゅうざん)南禅寺というように山号(さんごう)が必ず付いている。これは寺は山中に建てるものとされてきたからであり、昔から仏教と山は縁が深かったのである。
日本には、修験道(しゅげんどう)というもっぱら山中で修行する宗派もあって、比叡山や大峰山では千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)という、山中をひたすら歩く修行がいまも行われている。そうした修験道の人たちから特許侵害の苦情が出てきそうな見性登山道であるが、こちらは彼らほど懐古的ではなく、白装束を着たりホラ貝を吹いたりといったことはしない
最近の山は遭難予備軍と呼ばれる中高年の登山者でにぎわっているが、そのかわりに山で若い人を見かけることは少なくなった。山の良さはある程度の年齢にならないと分からないものかもしれず、そう考えれば若者の山離れは当然かもしれないが、涙が出るほど美しい日本の山を歩く楽しみを、若い人にももっと知ってもらいたいと思う。
新緑の山のさわやかさ、強烈に心に迫ってくる紅葉の美しさ、雪の世界に身をおく緊張感と充実感、山頂に立ったときの喜び、これらはかけがいのない経験であり、一生の財産になる。それらは私たちの生き方や考え方を矯正する力を持っている。しかしせっかく山に行っても、スキー場のゲレンデを上下するだけとか、ロープウェイの駅の回りを歩くだけ、というのではあまりにもったいない。また喧噪の中では山の良さは味わえない。足腰の弱い人でも大自然の息吹に触れることのできる道は、たくさん用意されているのである。
見性登山道開眼
雲水修行をしているとき、休みを利用して富士山に登りにいったことがある。日本のいちばん高いところへ登りたいという単純な動機で出かけたのであり、山の経験はまったくなく、作務着に地下タビ、金剛杖(こんごうづえ)という出で立ちであった。
今ではほとんどの人が五合目まで車で登ってしまうが、私は富士吉田の浅間(せんげん)神社にお参りし、そこから山頂をめざした。まだ距離をおいて山全体が見える地点からの出発である。樹林帯に入ると山の姿は見えなくなり、五合目までは豊かな森林がつづいていた。
そして五合目の森林限界を抜けたとき、目の前に一本の木も生えていない巨大な斜面が姿をあらわした。富士山は森林限界をもって五合目としているため、登山道によって五合目の標高に違いはあるが、どの道を登っても五合目から上は、つづら折りの急な登りの連続である。
ところが八合目まで登ったとき、前日の寝不足がたたったのか、高山病の症状か、貧血状態になり歩けなくなってきた。暫くしゃがんでいると頭に血が戻ってくるが、歩き始めるとまたすぐに血の気が引き、頭の中がひんやりとしてきて体もフラフラする。ついにはすれ違う人に、「顔色が悪いですよ」と言われるようになり、結局その日は八合目の小屋に泊まり、翌日やっと山頂にたどりついた。
こうしたかなり哀れな山歩きだったが、このときの心の状態を点検してみるとなかなかいいのである。ヘトヘトに疲れ切ると余計な心が働かなくなる。つまり無心の状態になってくるのであり、これはいい修行になると思った。
四十歳のころ胃を悪くし、原因は運動不足だろうと、継続して山を歩くようになった。初めは近くの低山を歩いていたが、だんだん遠くへ行くようになり、一年後には北アルプスの太郎平(たろうだいら)から槍ヶ岳へ向かって歩いていた。富士山以外でははじめて山らしい山に挑戦したのである。もちろん夏山であるがその年は雪が多かった。雪で通過できない所があって回り道をし、不慣れなため道を探すのに手間どり、天気にも恵まれず、誰ひとり会う人もなく、十二時間かかって三俣(みつまた)小屋にたどり着いたときは完全に疲れ切っていた。最後の登りは死ぬかと思うほど苦しかった。
そのため疲れがしっかりと残ってしまい、翌日は休息したかった。ところが悪いことに翌朝はまったくの快晴だった。梅雨の中休みを狙ってきたのだから、この恵まれた天気に出発しない訳にはいかないという状況だったのである。
そのため小屋の人には元気を装って槍ヶ岳にむけて出立したが、ついに難所の西鎌尾根(にしかまおね)でへたばってしまった。休憩したあと立ち上がっただけでも息が切れ、胸が苦しくて十歩と歩き続けられない、という状態になったのである。しかも雪のため道のない危険な場所を歩かなければならず、そのうえ天気は下り坂で風が強くなり、ついには雨が降りだすという絶体絶命の窮地に陥ってしまった(少し大げさか)。
岩にもたれて休息しながら点検してみると、判断力と敏捷性に問題のあることが分かった。とくに息切れしている時はこの二つが著しく低下しており、無理して歩けば事故を起こしかねない。これは困ったと思案した結果、息切れを起こさない歩き方を発見した。
坐禅の道場では坐禅の合間に、経行(きんひん)という歩く修行を行っている。これは足休めでもあり、静から動へ移行する準備でもあり、動中の工夫でもある。臨済宗は早足の経行をおこなっており、ときには走ったりするが、曹洞宗の経行は歩いているかいないか遠目では分からないような、ゆっくりとした経行である。
その曹洞宗の経行をここで採用し、息切れを防いだのである。場所によっては足早に歩かなければならないこともあるが、そのときはすぐに立ち止まって呼吸を調えた。こうしてわずか一キロ半の道のりを三時間かけて歩き、無事に槍ヶ岳山荘にたどり着いた。小屋の手前で雷鳥がゲコゲコと鳴いて歓迎してくれたのを覚えている。
山の好きな人なら誰しも、もう死ぬのではないかと思うほど苦しい経験をしたことが、何度もあると思う。慣れてくると、そういう思いをしないと山を歩いた気がしなくなってくるし、またその中で得られることもある。真剣勝負の状態になることで、ふだんは煩悩に覆われていて見えない本心をかいま見たりするのである。
山を味わう
とはいえそのような山歩きばかりしていると、いつか遭難することにもなりかねない。効き目があるだけに副作用も強く、あまり勧められる方法ではない。またそこまで無理をしなくても、ふつうに山を歩いていれば自然と身も心も健全になってくる。「足は第二の心臓」と言われるように、歩いていれば全身の血のめぐりが良くなり、それにつれて体と心の不純物が燃えつきていく。そのため歩き始めは体が重く気分が乗らなくても、しばらく歩いていると身も心も軽やかになってくる。
だからこそ山頂に立ったときの喜びは大きい。心と体の不純物を焼きつくしたことで、すべてが新鮮に輝いて見えるのである。乗り物を利用して登ったときには、この感激は決して味わうことはできない。修行するには何かの負担が必要なのであり、坐禅をするにしても冷暖房つきの快適な場所よりも、寒かったり暑かったりする場所の方が真剣に坐禅できる。「刻苦、光明かならず盛大なり」なのである。
白装束を着て富士山などに登る行者さんたちは、「六根清浄お山は晴天」などと唱えながら歩いているという。声に心を集中することで雑念を捨てていくのであり、私も声は出さないが心の中で六根清浄を唱えて歩くこともある。六根は「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」という五つの感覚作用に、意識を加えた六つの心の働きのことであるから、六根清浄は心全体を清らかにすることを意味している。
六根清浄を心がけ、油断なく周囲に気を配り、ネコのように軽やかに、小石ひとつ落とさないように静かに歩いていれば、山にとけこみ、山の霊気を感じることができる筈である。
山の良さを味わうには一人がよい。これは一人旅の良さと同じことで、山と一つになるには一人に限るとも言える。人と歩いていると人間関係に気をとられて自然とのふれあいが半減するし、楽しいおしゃべりも心を調える邪魔になる。だからラジオを鳴らしながらでは山の良さは味わえないし、周囲の迷惑にもなる。
しかし「単独登山は止めましょう」という山の標語があるように、単独行は危険が多いと言われる。もちろん複数であっても山に危険はつきものだが、一人だと事故を起こした時の対処が難しく、また道に迷いやすいというのも当たっていると思う。だから山を味わうことと危険度を下げることの兼ね合いはむずかしい。
山菜などを採取することはあまりお勧めできない。山の楽しみの一つではあるが、山菜探しに目を奪われて心がお留守になってしまうし、自然保護の点からも問題がある。目の前に転がっていたら拾って帰るぐらいにとどめるべきであろう。
私は歩いているときは足元に注意を集中し、ときどき立ち止まっては木の上や崖の上まで見まわすようにしている。これは危険を察知したり道をまちがえないために必要なことだし、植物や動物を観察するためでもある。なお山の装備はよく調べて初めから良いものを買った方が、お金を無駄にしないように思う。また自分の山歩きのすこし上の段階まで、本などで知識を仕入れておくと役に立つことがある。
山を歩いていると自然破壊とか、生態系の破壊といったことが目につくようになってくる。砂防ダムや護岸のない川は日本には一本も存在しないのであり、それらは災害を防ぐために必要なものかもしれないが、程度を越えているようにも思われてくる。
また個人の持ち山なら、生活のために自然林を切り払ってスギやヒノキを植林する必要もあるだろうが、国民の財産である国有林は手つかずのまま未来に残すべきだと思う。とくに日本列島の背骨を形成する山々には手をつけてはいけないと思う。しばらく山を歩いていると、なぜ税金を使って自然破壊をするのかと、誰しも感じるようになるはずである。
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