捨てる修行

ひとりの日本人旅行者が、インド亜大陸の南端にあるコモリン岬から海を見ていた。彼は眼前に広がるインド洋を見て何かを感じたのか、あるいはインドを旅行していて何かに目覚めたのか、持っていた荷物を海に投げこんで裸足になり、北に向かって歩きはじめた。そして二千キロ以上はなれたカルカッタまで徒歩の旅をした、というような話を、インド旅行中に聞いたことがある。

インドには釈尊の時代から、無一物に近い姿で遊行する多くの修行者がいた。食事や宿を提供してくれる場所がたくさんあったので、お金や物がなくても遊行できたのである。その日本人もそういう修行者の仲間入りをしたのだが、日本人が無一物でインドを旅するのは無理だと思うから、かなり誇張された話だろうと思っていた。

ところがブッダガヤに滞在したとき、そのような旅をしたことのある日本人と知りあいになった。彼は釈尊生誕の地ルンビニーから、ガンジス河中流にある聖地バラナシまで、ヒンズー教の修行者の服を着て裸足で歩いたと言っていた。修行者の姿で歩いていると、食べ物や寝るところは自然に与えられるのでお金を使う必要はなく、歩きすぎて体調をこわして倒れたときも、親切に看病してくれる人があって旅を続けられたという。もちろん無一物といっても、旅券と小切手は肌身はなさず持っていたという。

私が彼に会ったのは昭和五四年のことで、彼がそのような旅をしたのはそれより十年ほど前のことだったが、その十年間にインド社会は大きく変化し、そうした旅をする時代ではなくなった、日本と同じようにお金が優先する社会になってしまった、と言って彼は嘆いていた。

私自身インドで何度かお寺に泊めてもらったことがある。むこうのお寺は頼めばたいてい泊めてくれるし、食事を出してくれたところもある。ただし机のような木の寝台があればましな方で、床のうえに寝袋で直に寝たこともある。へやの中には毛布や家具などは一切なく、何もないから泊め易いということもあるのだろうが、キリスト教の教会でもイスラム教のモスクでも泊めてくれるというから、これはインドあたりの伝統かもしれない。タダでは申し訳ないと思ったら、出るときお金を少し置いてくればいいのである。

日本でも四国八十八ヶ所をお遍路さんの姿で歩いていると、地元の人が札所で待っていてお茶やお菓子で接待してくれる。また門づけして歩くとお米やお金をもらえるので、昔はお金を持たずに巡礼する人もあった。そのためお遍路を仕事にする人もあったとのことで、山頭火(さんとうか)という俳人の旅日記には職業遍路という言葉が出てくる。山頭火自身も托鉢しながら日本中を旅して回ったのであり、インドでもそのような伝統が最近まで残っていたのである。

インドでは後継ぎができて引退すると、森の中で独居生活をしたり、あるいは遊行生活をして、残りの人生を真理の探究のために使うということが理想とされていた。その期間を林住期(りんじゅうき)とか遊行期(ゆぎょうき)と呼んでおり、そうした人々を受け容れる体制もできていた。仏教の修行者もそのような体制の中で、三枚の着物と一つの鉢で遊行していたのである。

インドは旅する人を宗教的にさせる国である。この国を旅していると、宇宙の根本原理とは何か、何が本当の自分なのか、人は何のために生きているのか、といったインドの哲人にでもなったようなことを考えたりする。そして精神的なものを求めていると、物を所有するのが煩わしくなってくる。物が有るとどうしてもそれに心がとらわれるからであり、そのため心の自由を大切にする人は物を持ちたがらない。

煎じつめて言えば仏教は捨てる修行である。執着を一つ捨てるごとに安らぎが一つ実現し、新しい世界が開けてくるのである。とはいえ物があると煩わしいが、無いと不便であるから、お寺に住んでいても無一物とはいかず、物の管理に追われることになる。しかし捨てることはできないとしても、整理整頓すれば身も心もかなり身軽になる。

最近、老人力という言葉がはやっているという。「私も年を取ってしまった」とか「物忘れがひどくなった」などと嘆くかわりに、「だいぶ老人力が付いてきた」というように、老いを積極的に表現する言葉が老人力である。だから「あーどっこいしょ」とか「あーやれやれ」といった言葉が口をついて出るのは、かなり老人力が付いてきた証拠である。

物忘れするのは悪いことばかりではない。忘れてしまえば、こだわりがなくなり自由になれる。あれもせないかん、これも覚えておかないかん、という几帳面さから解放されると、心がのびのびしてくる。年を取ることのいい面をもっと認識しよう、という発想が老人力という言葉には感じられる。

年を取るのはものを捨てていくことである。体力も健康も、苦労して手に入れた能力も失われていく。せっかく手に入れたものが失われるのは悲しいことだが、それも仕方のないことで、こうして人間は能力と寿命に限界があることを納得していくのである。八十過ぎると自然にある程度の悟りが開けてくるというが、持っていたものを捨てた結果である。八十過ぎると安らかに死ねるというが、それも老人力のたまものである。若いときのように握りしめていては、なかなか受け容れられないことなのである。

「無一物となった者に苦悩は存在しない」。ブッダ

もどる