心を澄ませる

唐の時代の中国に鏡清(きょうしょう)という禅僧がいた。その若いときの話である。彼は一心に修行しても得るところがなく、悟りの手がかりさえつかめなかったので、師匠の玄沙師備(げんしゃしび)禅師に質問した。

「私はまじめに修行しているつもりですが、何の手がかりも得られません。いったい禅はどこから入ったらよいのでしょうか」

すると禅師が言った。「あの谷川の音が聞こえるか」

「はい、聞こえます」

「では、そこから入りなさい」

そして彼は谷川の音から悟りを開く手がかりを得たという。谷川の音のどこに悟りの入口があるのだろうか。

「耳を澄ませる」という言葉がある。耳を澄ませると、それまで聞こえなかった音が聞こえてきたりする。ところが耳は澄んだり濁ったりするものではなく、また目とちがって開けたり閉じたりできるものでもない。ならば耳を澄ませるとはどういうことなのか。

耳を澄ませるというのは、じつは心を澄ませることである。心の中の騒音が消えて静かになると、外の音が心の中に流れこんで来てよく聞こえるようになる。そして心が本当に澄んでいれば、音と自分が一つになる。道元禅師はそれを、「聞くままに又心なき身にしあれば、己なりけり軒の玉水」と歌っている。心の中がからっぽになれば、雨だれと自分が一つになるのである。

人間は朝から晩まで休むことなく考えごとをしている。得をしたこと損をしたこと、楽しかったこと腹の立つこと、さまざまな思いで頭の中は満ちている。ここにビデオカメラと受像器があるとする。撮影した景色が受像器にはっきりと写り、集音した音がきちんと再生されれば、これらの装置は正しく働いていることになる。

人間も、目で見たものがそのまま心に写り、耳で聞いた音がそのまま心に聞こえてくれば、感覚器官が正しく機能していることになる。ところが見たり聞いたりしたものが、心の画面にきれいに再生されることはほとんどない。自分では山を見ているつもりでも、心の画面は怒りに満ちていたりする。谷川の音を聞いているつもりでも、心の画面はねたみにあふれていたりする。こうした乱れた心で生きているのだから、迷ったり悩んだりするのは当然である。

だから心の乱れを正さなければならない。そしてよく調えられた澄んだ心になったとき、本当の自分の心、すなわち真実の自己にお目にかかることができる。お釈迦さまも達磨大師も臨済禅師も、真実の自己に目覚めるために精進したのであり、澄みきった心で生きていく以上にすばらしいことはないのである。

雲水修行をしていたとき隠侍(いんじ)という役をしたことがある。隠侍は老師の世話役であり、老師が鈴を鳴らして呼んだら「ハイッ」と返事をしてすぐ行かなければならない。そのとき先輩から、「いつも耳を澄ませているように」と教えてもらったことを覚えている。それは鈴の音を聞き逃さないためでもあるが、もっと深い意味があることにやがて気がついた。

至道無難禅師がこんな歌を残している。「主(ぬし)なくて見聞覚知する人を、いき仏とは是をいふなり」。生きた仏様とは「私が、私が」という騒音をたてる主のいない人のことだというのである。また「主ありて見聞覚知する人を、いきちくしょうと是をいふなり」という歌も残している。生きた畜生とは「私が、私が」の強い人のことだというのである。

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