お経の話
葬儀や法事のときになぜお経を読むのだろうか。これまで一度も「何のためにお経を読むのか」と質問された事はないが、納得している人は意外と少ないのではないかと思う。
仏教では、たとえ一言半句であっても、お経を読んだり、読んで聞かせることは、たいへん功徳のあることとされている。その功徳を亡くなった人に回向するのが読経の目的であり、これは他の仏教国でも同じことをしていると思う。読経によって先祖が本当に救われるのかと訊かれると困るが、読む人間にそうした力はなくても、お経にはそうした力があるとされる。
それではお経とは何かというと、釈尊が残した教えをお経という。仏教の文献は経・律・論(きょう・りつ・ろん)の三つに分類されていて、お経は釈尊の言葉、律は戒律に関係する文書、論は後世に成立した仏教哲学とか仏教思想に関する文書を指している。そしてそれぞれが蔵が一杯になるぐらい多量の文書があることから、三つをまとめて「経律論の三蔵」と呼び、それらを学び尽くした人のことを三蔵法師と呼ぶ。
お経が成立したのは、釈尊の没後すぐのこととされる。釈尊の教えを残すために、没後すぐに弟子たちが集まって仏典結集(ぶってんけつじゅう)と呼ばれる編集会議を開き、その会議で釈尊の教えと認められたものがお経としてまとめられたのである。その後お経は口伝えで伝承され、文字の使用が広まった三百年ほどのちの紀元前一世紀に、スリランカで初めて文字のお経が成立したという。
それでは釈尊はどんな言葉を使っていたのだろうか。仏教の八大聖地のひとつ祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の遺跡に、釈尊が坐っていた場所とされる金剛宝座がある。インドを旅行したときその前で礼拝していたら、スリランカの僧がやって来て読経をはじめ、あとで近くにある彼の寺でお茶をごちそうになった。そのときその僧が、「さっき読んだのはオリジナルのパーリ語だ。ブッダが話していた言葉だ」と言っていたのを覚えている。
パーリ語は釈尊が住んでいた地域で使われていた古代インド語の一つであり、釈尊がパーリ語を話していたかどうかは確認できないというが、釈尊の教えはパーリ語の経典にまとめられて伝承され、現在もスリランカや東南アジアの仏教国で読まれている。ただし大乗仏教経典は、インドでいちばん権威のある言葉とされるサンスクリット語で書かれており、中国や日本に伝わったのはこちらの経典である。
仏教がインドから他の国々に伝わったとき、お経はさまざまな国の言葉に翻訳されたが、現在のこっている主なものは、パーリ語、チベット語、中国語(漢文)の三種であり、パーリ語のお経は「南伝大蔵経」、チベット語のお経は「チベット大蔵経」、中国語のお経は「国訳一切経」と「国訳大蔵経」の名で日本語に翻訳されている。なお仏教は十三世紀ごろに生まれ故郷のインドから消滅したため、お経の原典はインドにはほとんど残っていない。
中国に仏教が伝わったのは西暦元年のころとされ、それから千年ものあいだ中国人は様々な仏典を輸入し翻訳してきた。そのため膨大な量の中国語の仏典が残っている。いちばん量の多いのが中国語のお経なのである。
中国とインドは文化に大きな違いがある。たとえば中国には歴史はあるが哲学がない、インドには哲学はあるが歴史がない、という言葉があるように、中国人は歴史を大切にし丹念に記録してきたが、この国では哲学はほとんど発達しなかった。
一方のインドはあまり歴史の残っていない国である。熱帯の季節感のない国に住んでいると、歴史感覚が発達しにくいといわれており、それがインド人が歴史を残さなかった理由とされる。もっともインドは大国だから常夏の国土ばかりではないが、古い時代の歴史はほとんど残っていないのであり、そのため釈尊の生存年代もはっきりしておらず、中国の歴史をもとに生存年代を推測しているような状態である。
このようにインド人は、個々の歴史やでき事にはあまり興味を持たなかったようだが、物事の根本を追求する哲学的傾向の強い人たちであり、つぎのような問題に強く興味を引かれていたようである。
この世界とは何か。何が宇宙を生み出しているのか。宇宙の根本原理は何か。
自分とは何か。何が自己の本心か。真実の自己とは何か。心の奥へ分け入っていくと何があるのか。
どうすれば人生の苦しみを根本から解決できるか。
永遠の命を体得するにはどうすればよいか。
インド人はこうした問題を追及し答えを出してきた。それも理屈で考えて出したのではなく、心の奥に分け入り真理と一体になることで答えを出してきたのである。そのため中国人はそうしたインドの哲学や宗教に強いあこがれを抱き、それらの精華が収められている仏典を大量に翻訳してきたのであった。
お経を翻訳するには二通りのやり方があった。一つは意味を翻訳するというふつうの翻訳であり、ほとんどのお経はこちらに属していて、これらは漢文の読める人なら何が書いてあるか理解できる。
もう一つは意味を翻訳しないやり方である。意味を翻訳しないのなら何を翻訳するのかとなるが、インドの言葉を漢字で音写するというやり方である。釈尊のふるさとの言葉でお経を読もうという趣旨のもので、真言とか陀羅尼(だらに)と呼ばれるものはこちらに属する。ところがこのとき問題になるのが漢字の意味である。漢字は一字一字が意味を持っている。それをどうするか。音と意味を同時に翻訳できれば理想的だが、そんなことは不可能であるから、この場合は意味を無視して漢字の音だけ利用することになる。だから陀羅尼は文字を読んでも意味はまったく分からない。
とかく分からないと非難されるお経であるが、修行として読経するには意味が分からない方がいいという考えもある。たとえば日本語で書かれた和讃(わさん)と呼ばれる文章は意味がよく分かる。しかし長所は短所で、分かりやすいだけについ意味を考えてしまい、無心になりにくい。その点、陀羅尼は文字を見ても耳で聞いても意味が全く分からない。そのため三昧に入りやすく、陀羅尼はふつうのお経の三倍の功徳があるといわれる。
読経のすすめ
禅宗の修行は坐禅が基本であり、坐禅は、体を調え、呼吸を調え、心を調える、つまり調身、調息、調心、の三段階になっている。そして心がよく調っているならそれですべては解決している。結局のところ解決していないのは自分の心だけである。
ならば心を調えるとはどういうことかというと、それは心の中を空っぽにすることである。心の中に何かあるとどうしてもそれにとらわれてしまい、悩んだり、腹を立てたり、ねたんだり、となるが、心の中が空っぽであればすべては解決している。
そのため坐禅によって心の中のお荷物を捨てていくのであるが、坐禅は続けるのが難しい修行である。たいていの人はただ坐っていることに耐えられないのであり、とくに一人で坐っているとすぐに嫌になる。だから道場では時間を決めてみなで一緒に坐禅をする。仲間がいると不思議とがんばれるのであり、それを大衆の威神力という。
その点、読経は声を出すという行動を伴うため、入りやすく、心を集中しやすく、そして続けやすい修行である。だから一般の人がひとりで修行する場合は、読経の方が坐禅よりも向いていると思う。そのため私はお経に親しんでもらおうと、法事のときには経本を配ってみんなで一緒に読経している。
般若心経とか十句観音経などの短いお経をくり返し読んでいると、心の中が空っぽになってくる。その空っぽの心を大切にしたい。最近は年に三万人以上の人が自殺しているというが、悩みごとを持ちつづけると心も体も病気になる。一日のうち三十分や一時間ぐらいは、心を空っぽにする時間を持たねばならない。
自宅で読経をするには、仏壇があればその前でするのがいいと思う。その場合はまず本尊さまに回向し、それからご先祖さまに回向し、そのあと時間のあるかぎり、根気の続くかぎり、短いお経か陀羅尼をくり返し読むのがいいと思う。般若心経は一分少々で読める短いお経であるが、姿勢を正し、しっかりと合掌し、心をこめて真剣に読経すれば、一回読むだけでも驚くほど心の中がすっきりとする。すぐに実行できることなので試していただきたい。
大森曹玄老師がこんなことを言っている。「真の読経の功徳とは、お経を読むことで自己を尽くしていくことにある。だから全身全霊を打ちこみ自己を忘れて読経しなければならない。お経にありがたいお経とか、ありがたくないお経などという違いはない。読み方が問題なのだ」
白隠禅師の高弟の東嶺(とうれい)和尚が、看経論(かんきんろん)のなかで読経の八つの功徳を説いている。
自分が受ける四つの功徳。
一、三昧を助ける。読経の声が心に入り、心を正しくする故に。
二、災いを滅す。善神の守護を受け、悪鬼は怖れて近づかなくなる故に。
三、病をのぞく。読経の声が身体に充ち、気血のめぐりがよくなる故に。
四、心願がかなう。運命が日々に改まり、大道に従って生きるようになる故に。
他の受ける四つの功徳。
一、諸天を歓ばせる。仏教の守護神が力を得て、勢力を増長する故に。
二、迷えるものを救う。悪業を消して、菩提心を起こさせる故に。
三、読経を見聞きしている者を益する。悪念を捨てさせ、信心を育てる故に。
四、人間以外のものを利する。音声の及ぶ所、あまねく仏法と縁を結ばせる故に。
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