見ざる、聞かざる、言わざる


平成九年八月、ミズバショウで有名な尾瀬を訪ね、その帰りに日光に立ち寄った。「日光見ぬうち結構いうな」といわれる一大観光地だけに、見ごたえのある建造物が建ち並んでいて、参道の杉並木にも圧倒されたが、日光といえばまず東照宮であり、その東照宮の見どころの一つが「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿(さんえん)の彫刻である。猿は馬を守るという言い伝えから、これらの彫刻は馬小屋の長押(なげし)に彫られているが、馬小屋といえど私が住んでいる家よりはるかに立派な建物だった。

人間の体には眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官があって、私たちはそれらの器官で外の世界を認識している。ところがこの認識は一方通行であり、外を見ることはできるが、中をのぞくことはできない。そのため私たちは外のことには注意を向けるが、心の中のことはほったらかしにしている。

意馬心猿の言葉のように、心は馬や猿のごとく自分勝手に動きまわり、自分の心であってもこれを制御するのは容易ではない。しかし見ざる、聞かざる、言わざるでもって、心はしっかり制御しなければならないのである。

「見ざる」は坐禅修行をするとき大事なことである。坐禅をしていると、少しのよそ見で心が乱れてしまうことがよく分かる。手洗いに行って窓から外を眺めただけで、あの花は何だろうとか、あの人は何をしているのだろうと心を動かされ、それが坐禅に大きな影響を与える。

「聞かざる、言わざる」はさらに大切であり、おしゃべりをすると心を調えるのが難しくなるから、坐禅修行の期間中は完全な沈黙を守ることになっている。坐禅のとき心が集中できない人は、おそらくこのあたりに原因がある。

おしゃべりには不平不満を吐き出して心を軽くする効用もあるが、しゃべりすぎは心を疲れさせるだけだし、「病は口から入り、災いは口から出ず」という言葉もある。また釈尊も、「汝らが集えるときに為すべきことが二つある。法について語ることと、聖なる沈黙を守ることである」と言っている。

この三猿に猿をもう一匹、加えるべきだと思う。それは「考えざる」である。余計なことを考えるから、腹が立ったり、人を恨んだり、生きているのが嫌になったりする。だから考える必要のないことは一切考えない、というのが賢い猿である。不要なことに対して、見ざる、聞かざる、言わざる、考えざる、を守っていれば、心やすらかに生きていけるし、大きな仕事を成し遂げることもできるはずである。

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