靴をみがく男

最近読んだ本の中に、いいお話が載っていたのでご紹介したい。アメリカのある家でのできごとである。夫婦と小さな子ども二人の一家四人が、夕食を終えてくつろいでいる所に電話がかかってきた。奥さんが出てみると電話は母親からのもので、それはたいへんに悲しい内容であった。彼女の兄夫婦とその子ども二人、それと兄嫁の姉の五人全員が交通事故で亡くなったという知らせであり、だからできるだけ早くこちらに来てほしいというのである。

夫は翌朝一番にかけつけるため、さっそく飛行機の手配をはじめた。奥さんも出発の準備をしなければならないが、ちょうど引っ越しのために荷物の箱詰めをしている時だったので、家の中はごった返していた。服を取り出そうにも気が動転して入れた箱が思い出せず、その他の服は汚れたまま洗濯場で山になっている。

だからまず洗濯と食事の後かたづけをしなければならず、そろそろ子どもも寝かしつけなければならない。ところがやることは山ほどあるのに、悲しみのため何も手につかず、それどころか家の中を歩いていても、椅子につまずいたり戸にぶつかったりするような状態だった。

夫が友人に電話をかけて事情を説明し後のことを頼むと、「私にできることがあったら何でも仰ってください。お手伝いします」とみんな言ってくれたが、何を頼んだらいいのか思いつくような状態ではなかった。

彼女は教会の日曜学校の奉仕活動で、小さな子供たちに何かを教えていた。その先生の仕事もできないことに気がつき、もう一人の女の先生に電話をかけ、次の日曜日は一人でやってもらうように頼んだ。それからしばらくして玄関に来客があった。奥さんが足を引きずるようにして出てみると、さきほど電話をした先生の夫が立っていた。いつも物静かなその人は、「あなた方の靴をみがきに来ました」と物静かに言った。

その言葉は悲しみで虚ろになっている心の底まで届いたが、意味が理解できなかった。呆然としていると彼がつづけて説明した。「妻は小さい子供がいるので来ることができません。でも私たちは何かあなた達のお役に立ちたいのです。私の父が死んだとき、葬式に参列するための子供の靴をみがくのに、ずいぶん手間取ったのを思い出しました。なにしろ子供が六人もいますから。それであなた方の靴を磨いてあげようと思って来たのです。遠慮せずに、よそ行きの靴だけでなく全部出して下さい」

そう言われるまで靴のことなど全く考えていなかったが、前の日曜日に教会からの帰り道、子供たちがよそ行きの靴でぬかるみの中を歩き回り、そのままになっていることを思い出した。そこで彼の好意を受け入れることにし、靴を集め、靴みがきの道具と洗うためのバケツを用意すると、彼は床にひざまずいてさっそく靴みがきに取りかかった。

その一心に靴をみがく姿を見て、彼女も元気をすこし取りもどし、自分のするべきことが見えてきた。「まず洗濯をしなくては」と洗濯に取りかかり、それから子どもたちを風呂に入れて寝かしつけ、夕食の後片づけを始めた。その間、彼は脇目もふらずに靴をみがいていた。

床にひざまづいて靴をみがいている彼の姿は、聖書の中の一場面を思い出させた。イエス・キリストが十字架にかけられる前、ひざまづいて弟子の一人ひとりの足を洗いながら「私がしていることの意味は、いま分からなくともやがて分かる時が来るだろう。私があなた方の足を洗ったように、あなた方も互いに足を洗ってあげなければならない」という場面である。

その行為にこめられた深い意味と思いやりの心を、彼女はこのとき初めて納得し、急に涙があふれ出てきた。あまりの悲しみのために泣くこともできなかったのだが、そのときやっと涙が出てきたのである。そして涙を流すことで悲しみで凍り付いていた心が溶けはじめた。

悲しみにしても怒りや不平不満にしても、泣いたり怒ったりして感情をうまく表面に出すことができれば、しこりを取り除くことができる。ところが抑えつけてばかりいると、しこりがいつまでも残ってしまう。彼女も涙を流すことで心の自由を取りもどし、出発の準備にとりかかる気力が出てきたのだった。

洗濯物を乾燥機に入れて戻ってきたとき男はすでにいなくなっており、壁ぎわにきれいに磨いた靴が一列に並べられていた。すべて靴底まできれいに洗ってあったので、汚れを心配することなく旅行かばんに入れることができた。その日は夜遅くまで支度のために忙殺され、翌日は早朝に起きて出発したが、仕事はすべて片づいていた。行く先には大きな悲しみが待ち受けていたが、一心に靴をみがく友人の姿を思い出すたびに慰められた。

それ以来、知り合いに悲しいでき事があった時には、「私にできることがあれば何でも仰ってください」という言い方はせず、留守番とか、犬の散歩とか、庭の草木の水やりとか、具体的な提案をして手伝いを買って出るようになった。もちろん押しつけがましくならないよう気をつけながらである。

参考文献「新死ぬ瞬間」p225 E・キューブラー・ロス 1985年 読売新聞社

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