心のきわまる処

「行きては到る、水の窮(きわ)まる処

 坐しては見る、雲の起こる時」

この漢詩の一節は仏道修行を象徴する言葉としてよく引用される。たとえば一本の川をどこまでもさかのぼって行くとする。出発したとき川は、にぎやかな町の中をゆったりと流れているが、いつしか周囲に田や畑が広がるようになり、行く手に山が迫ってくる。山に入ると川幅が狭まり、流れが急になり、やがて滝が連続するようになる。そうした険しい場所を通ぎると、流れは再びおだやかになり、枝分かれしながら急速に水量をへらし、最後は小さな谷へと続いている。そしてこれ以上さかのぼると川が無くなるという所、そこが水の窮まるところである。

静けさと快い緊張感を味わいながら、腰を下ろして見上げると、歩きだしたときには遠くに霞んでいた山頂が間近にそびえており、そこから雲がわき起こり流れていく。水の窮まる処は、雲の起こる処である。

坐禅修行も同じである。煩悩妄想のにぎやかなところを離れ、退屈でぼんやりしたところを過ぎ、うっとりと気持ちのいいところも過ぎ、ツタやイバラの藪を突破し、銀山鉄壁を登っていくと、やがて心のみなもとに着く。そこが世界の中心であり、世界が生まれでてくる所である。そこでわき起こる雲がこの世界を作りだしているのである。

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