軽やかな心
「水をくみ出したなら舟は軽やかに進むであろう」という釈尊の言葉がある。たとえば小さな手こぎの舟があるとする。この舟の中に水がたまっていると、こいでも舟はなかなか進んでくれず、放っておけば沈没してしまうかもしれないが、水をくみ出せば舟は軽やかに進んでくれる。
人の心も同じである。水のたまった心は軽やかに動いてくれず、放っておけば人間だって沈没するかもしれないから、水をため込まないように気をつけていなければならない。心の中にたまった水のことを煩悩(ぼんのう)という。心を悩まし、体を乱し、正しい智恵を妨害し、悟りを開くじゃまをするのが煩悩である。
人間には百八の煩悩があるといわれ、除夜の鐘を百八つくのは煩悩を退治するためというが、鐘をいくらついても煩悩は退治できない。そのたくさんある煩悩の中でも、とくに人を苦しめる三つを三毒(さんどく)と呼んでいる。毒薬のように人を苦しめる、貪りの心、怒りの心、愚痴の心、の三つである。
貪りの心は、自分の好きなものに執着して動きがとれなくなった心である。何かに執着してしまうとそれを捨てるのは難しいものである。
怒りの心は、自分の嫌いなものに反発して腹を立てる心である。怒りがいかに自分を苦しめるかは、人と争いをしたときのことを思い出せばよく分かる。また怒りがこり固まって永続する心を恨みといい、怒りにかられて実力行使に訴える心を害という。
愚痴の心は、道理をわきまえない愚かな心をいう。自分だけはいつまでも若く元気に美しくありたい、好きな人とだけ付き合っていたい、すべてのことを自分の思い通りにしたい、という自己中心的な心であり、その根源には自我の迷執という盲目的に自我に執着する迷いがある。無明(むみょう)とも呼ばれる愚痴の心は迷いの心の根本とされており、愚痴の心から貪りの心が起こり、貪りの心あれば必ず怒りの心がある、と三毒が出そろうことになる。
貪りの心に対しては、小欲と知足、布施の実行、が治療法となる。怒りの心に対しては、慈悲と寛容の心を育てること、気に入らないことがあってもそれを素直に受け容れられる忍の心を育てることが治療法である。愚痴に対しては、我見、我情を離れた明らかな知恵が治療薬であり、智恵はすべての煩悩に対する治療薬でもある。
三毒に代表される水をきれいにくみ出し、煩悩の束縛から解放された人のことを仏さまといい、一滴の水も残っていないきれいな心のことを仏心という。心の中に何もないことを無心というから、仏心は無心である。人はすべて生まれながらに仏心を持っている、すべての人は本来仏さまである、というのが大乗仏教のいちばん大切な教えなのである。
白隠禅師いわく。
「よきも悪しきもよそより来ぬぞ、迷う我が身の心より」
「知者も善者も浮き世を見るに、色と金には皆迷う」
「欲を心に離れてみやれ、何がなくとも充分じゃ」
「人の善し悪し眼に立つうちは、恥じて修行に精出しゃれ」
「ここは娑婆とて堪忍国土、忍をなすゆえ人ではないか」
「人に対して腹立つときは、早くおのれが愚痴と知れ」
「死ぬもめでたい生きるもめでた、とかくこの世は仮の宿」
「野辺の送りの煙りを見やれ、あすは我が身もあの如く」
「生きて居ながら死んだがよいぞ、それで万事が手に入るぞ」
もどる