慈悲の話
ウリのつるにナスビはならず、トンビが鷹を生むことも実際にはあり得ない。それは遺伝子の中に設計図が組みこまれていて、ウリのつるにはウリがなるように指令を出しているからである。
ところが驚いたことに、この地球上には一千万種もの生物が存在するだろうといわれるが、遺伝子の原理はすべての生物で同じだという。植物も動物も、ミミズもオケラも人間も、遺伝子はすべておなじ原理でできており、おなじ文字で書き込まれているというのである。ミミズになるか人間になるかは遺伝子の違いではなく、書きこまれた情報の違いにすぎないのであり、そのため全ての生物は、どこかで一つにつながっている兄弟姉妹と考えられている。
だから一見、弱肉強食の悲惨な世界に見えるこの地上世界であるが、大きな目で見れば互いに助けあって生きている調和した世界なのだろう。生き物を殺したあと悲しくなるのは、みんな生まれる前からの兄弟姉妹だからかもしれない。
「一切の生きとし生けるものよ。幸福であれ。安楽であれ。安泰であれ」。これはお経によく出てくる言葉である。仏教が説く慈悲の対象は、一切の生き物に及んでいるのであり、その根本には、すべての生き物は一つの命を生きる仲間だという仏教の世界観がある。この世界観が仏教の智慧と慈悲の根本なのである。
釈尊は菩提樹の下で悟りを開いたとき、すべての迷いや苦しみから解放されたが、その救いにいたる道を人々に説くことをためらったと伝えられている。自分が悟ったことを説いたとしても、欲にまみれた人々にはとても理解されないと思ったからであるが、かって自分も味わった苦しみの中で生きている人々を思いやり、法を説くことを決意する。釈尊は世界で最初に布教を行った人といわれるが、その原動力は慈悲の心だったのである。
慈悲は抜苦与楽(ばっくよらく)を願う心とされ、慈悲を二つにわけた場合、慈は利益と安楽をもたらす与楽の面、悲は他の苦しみを自分の苦しみのように思いやり取りのぞく抜苦の面を表すとされる。また慈は父の愛、悲は母の愛にたとえられることもあり、仏菩薩(ぶつぼさつ)の広大無辺の慈悲は大慈大悲(だいじだいひ)と表現されることもある。
観音菩薩や地蔵菩薩は仏になる資格と力は充分にありながらも、成仏することなく衆生済度のために走り回っている菩薩である。これを大悲せん提(だいひせんだい)の菩薩という。「せん提」は「成仏する資質がない」ことを意味しており、もとは成仏不可能な人を指す言葉であったが、それを大乗仏教は「衆生済度に専念するため私は成仏しない」と決心した菩薩を意味する言葉に転用したのである。蓮の花の上に坐っていては、衆生済度はできないと考えたのであろう。
不動明王は慈悲心のかけらもないような恐ろしい顔をしているが、この顔も慈悲心のあらわれである。心の歪みをたたき直したり、悪い生活習慣を改めさせたりするには、思いやりのある厳しさが必要であり、不動明王の全身から立ちのぼる炎は、わがままな心を焼きつくす慈悲の炎なのである。
インドの聖者ビベーカーナンダがこんなことを言っている。「この世は短く、世の虚栄は移ろう。その中で他のために生きる者だけが真に生きる。それ以外の者は生きているよりも死せるに等しい」
ダライ・ラマいわく。「人間は宗教が無くても生きていける。だが慈悲心なくしては生きてはいけない。宗教も政治も経済も、慈しみと思いやりの心がなければ不幸しかもたらさない。これが私の断定です」
また至道無難禅師はこう言っている。「常に慈悲する人、家富み子孫さかふるなり」。ただしこうも言っている。「つねづねに心にかけてする慈悲は、慈悲のむくいをうけてくるしむ」。とらわれの心で行えば慈悲も苦の原因となるのであり、「慈悲して慈悲しらぬとき仏というなり」、という無心の慈悲でなければならないというのである。
参考文献
「生命の暗号」村上和雄 サンマーク出版1997年
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