布施の話
布施(ふせ)という言葉は「ひろく施す」ことを意味しており、梵語ダーナの訳語として仏典で使われているが、この言葉は仏教用語として作られたものではなく、仏教が伝わる以前から同じ意味で使われていた漢語である。
ダーナを漢字で音写した言葉が、旦那(だんな)、檀那(だんな)、檀(だん)であり、やはり布施の意味で使われる。この旦那がなぜか「うちの旦那さま」になったのだが、布施する人のことは正確には檀越(だんおつ)という。
釈尊は初めて教えを説く人には、まず布施を行うことの大切さを教え、次ぎに生活の指針となる五つの戒を授け、そしてそれらを得心した人に対してさらに深い教えを説いていかれたという。だから布施は仏教の入口であるが、一生を通じて実行すべき奥の院でもある。
布施には、お金や物をほどこす財施(ざいせ)、教えをほどこす法施(ほうせ)、畏れることなき心をほどこす無畏施(むいせ)の三種あるとされ、これを三施(さんせ)という。観音さまは無畏の心を授けてくれることから、施無畏者(せむいしゃ)と呼ばれており、京都三十三間堂の千体の観音像を見ると、観音さまに対する信仰心の大きさがよく分かる。
布施には三輪空寂(さんりんくうじゃく)の心がけが大切とされる。三輪とは、布施をする人、布施をうける人、布施される物、の三者であり、これらが無執着の関係でなければならないとされる。つまり布施する人はおごることなく、布施される人は卑屈になることなく、布施される物の良し悪しをいうことなく、無執着のうちに布施は行われなければならないのである。
また「陰徳(いんとく)を積む」という言葉でもって、布施は人目に付かないように、さりげなく実行しなさいと教えている。聖書にも「施しをするときラッパ吹き鳴らすな」とか、「右手のすることを左手に知らせるな」とある。人に見せびらかしてする施しは、そのときすでに報いを受けているから、功徳を天国に積んだことにならないというのである。
禅の道場では托鉢(たくはつ)という、昔ながらのわらじ脚絆の姿で、お米やお金をもらって歩く修行が今も行われている。托鉢の布施は喜捨(きしゃ)と呼ばれており、見返りを求めずただ与えるところに喜捨の尊さと喜びがある。そのため托鉢に馴れてない人は抵抗があるらしくあまり喜捨してくれないが、一度喜捨してその尊さと喜びを実感できた人は、行くたびに喜捨してくれるようになる。後を追いかけてきて喜捨してくれる人もたくさんある。
葬儀や法事のとき寺に納めるお礼も布施と呼ばれており、金封には「お布施」と書くのがふつうであるが、なかには「読経料」とか「回向料」と書く人がある。しかしこれはやはり布施が正解である。和尚の読経や法話は法施であり、檀家さんのお布施は財施であり、いずれにしても布施の功徳は亡くなった人に振り向けられるのである。
雑宝蔵経に無財の七施(むざいのしちせ)という、お金が無くてもできる七つの布施がのっている。
一、眼施(がんせ)。やさしいまなざしを贈る。
二、和顔悦色施(わげんえつじきせ)。にこやかな笑顔を贈る。
三、言辞施(ごんじせ)。思いやりと真実のこもった言葉を贈る。
四、身施(しんせ)。体を使ってお手伝いをする。
五、心施(しんせ)。思いやりに満ちた心づかいを贈る。
六、床坐施(しょうざせ)。坐る場所を贈る。席をゆずる。このお経が成立したのはバスや電車のない時代であるから、本来は休憩場所を提供することだったのかもしれない。欧米では「亡き誰々の想い出のために」などの札がついたベンチを街角でよく見かける。
七、房舎施(ぼうしゃせ)。旅人や困っている人に一夜の宿を提供する。
この中で本当に誰にでもできて世の中に不足している布施は、優しいまなざし、にこやかな笑顔、心のこもった言葉、ではないかと思う。眼施があるからには耳施(みみせ)もあっていいと思う。それは人の話を真剣に聞いてあげることである。またたとえ病気で寝ていても、遠く離れていても、人の幸せを祈ることはできる。それも心施の一つである。
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