衆生恩の話

私たちは周囲の人々やさまざまな生き物から無量の恩を受けて生きている。そうした生きとし生けるものから与えられている恩を衆生恩(しゅじょうおん)という。

衆生恩は四恩(しおん)の一つであり、三宝の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩、の四つが四恩である。ただし母恩、父恩、如来恩、説法師恩という四恩説もあり、国王恩、父母恩、師友恩、檀越恩という四恩説もある。

衆生は有情(うじょう)とも呼ばれているから、人間を初めとする意識(情)を持つ生き物が衆生に含まれるのであるが、動物も植物を遺伝子の構造は同じというから、意識を持たない植物も衆生の仲間に入れてもいいのではないかとも思う。

ただし衆生済度の言葉があるように、衆生は済度の対象になる存在であるから、仏、菩薩、縁覚、羅漢などの出世間の聖者はふつうは衆生の中に含まれない。つまり人間界では聖者の位に達しない凡夫を衆生と呼ぶのであり、だとすると聖者から受ける恩は衆生恩ではなく三宝の恩ということになる。

衆生は六道輪廻の濁流の中を浮き沈みしながら流されていく存在であり、そのため無限に続く輪廻の間に、たがいに父母妻子、兄弟朋友、あるいは敵や味方になってきたとされる。そしてそこでは恩も恨みも生じるのであるが、恨みはできるだけ忘れるようにしよう、恩はできるだけ忘れないようにしよう、ということで衆生恩が説かれるのかもしれない。

高校生のころジョーン・バエズが歌う「ドナドナ」という歌がはやっていた。その歌の日本語の歌詞の一つがこれである。

「ある晴れた昼下がり、市場へつづく道

 荷馬車がゴトゴト、子牛を乗せていく

 何も知らない子牛さえ、売られてゆくのが分かるのだろうか

 ドナ、ドナ、ドナ、ドーナ、悲しみをたたえ

 ドナ、ドナ、ドナ、ドーナ、はかない命


 青い空、白い雲、明るく飛びかう

 ツバメよ、それを見て、お前はなに思う

 もしもつばさが有るならば、楽しい牧場に帰れるものを

 ドナ、ドナ、ドナ、ドーナ、悲しみをたたえ

 ドナ、ドナ、ドナ、ドーナ、はかない命」

ドナドナというのは牛を追う時のかけ声だという。この子牛は市場に運ばれた後、どうなるのかというと、「はかない命」とあるから肉になって店頭に並ぶ運命なのであり、その悲しい定めを子牛は予感しているというのである。牛も豚も鶏も魚も喜んで犠牲になっているわけではないが、自分の命を投げだして私たちを生かしてくれているのであり、私たちは無量の衆生恩によって生かされているのである。

日本で行われている魚介鳥獣(ぎょかいちょうじゅう)などを供養する法要は、そうした衆生恩に感謝する法要であるが、無限につづく輪廻の中で、食う側になったり、食われる側になったりをくり返してきたと考えれば、お互い様と言えなくもない。

恩の中でも植物から受ける恩はとくに大きいと思う。食物連鎖の始まりは植物であるから、植物がいなければすべての動物は生きることができないのであり、それどころか植物が酸素を作らなかったら呼吸すらできないのである。

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