内観法の話

ここでいう内観法(ないかんほう)は、白隠禅師の内観の法ではなく、浄土真宗の一部の人が「身しらべ」という名で伝えてきた修行法のことである。

その身しらべというのは、今このまま死んだら、自分は極楽行きだろうか、それとも地獄行きだろうか、という問いを自分に突きつけて、集中的かつ徹底的に自己反省する修行である。目をそむけることなく過去のでき事をできるだけ丁寧に思い出し、自分には地獄がふさわしいか、極楽がふさわしいかと、自らの心に問うのである。

ほとんどの人はこうした自己反省から目をそむけて生きているが、過去の行為の善悪をふかく追求し反省していくと、たいていの人は自分自身に絶望し、自分はまちがいなく地獄行きだと納得することになる。ところが地獄行きまちがいなしという自分の姿が見えてくると、そこに新たな世界が開けてくる。自力の限界を自覚して絶望したとき、はじめて阿弥陀さまの慈悲と救いが得心でき、他力の信心を得て肩の荷を下ろしたように楽になるというのである。

この身しらべの修行法を一般に広めたのは吉本伊信(いしん)氏という人である。彼は浄土真宗の秘事法門であった身しらべを、飲まず食わず休まず眠らずで四回おこない、四回目に身しらべが徹底したことで大歓喜と大安心を得た。そのためその歓びを多くの人に知ってもらいたいと、身しらべの普及に尽力するようになったのであった。

そして一般の人が受け容れやすいように、身しらべから宗教的な色彩をとり去り、名前も内観法と変え、調べる内容も「地獄か極楽か」ではなく、「自分はこれまでに、どれだけ人の世話になってきたか。それに対して何かお返しをしたか。どれだけ人に迷惑をかけてきたか」という内容に変えたのであった。

つまり親、兄弟、配偶者、子供、ご近所様などとの関係を、一人ずつこれらの問いでもって調べていくのであり、ふつうはいちばん身近な存在である母親から始めるという。また調べる期間も、生まれてから小学校入学まで、小学校時代、中学校時代、というように区切ったり、あるいは出会いから今日までとか、出会いから別れた日までというように区切って調べるのである。

このようにして過去を直視して調べていくと、多くの人の世話になってきたのに、それを当然と思って感謝も恩返しもすることなく生きてきたこと、みんなに迷惑をかけてきたのに、反省も詫びることもなく生きてきたことに気がつくのである。

そして反省が深まっていくと、無明の闇から開放され、周囲からそそがれている愛情を感じ取れるようになり、感謝の心があふれてくる。見るもの聞くものすべてが気に入らないという不平不満の世界から、感謝の心を主とする世界へと住む世界が変わっていくのであり、人間には深く反省することで救われる機能が備わっているのである。

そのため人相や態度が一変するとか、わがままで傲慢な性格が素直な明るい性格になるというように、非行少年がコロッと変わることもあるという。禁酒や禁煙にも卓効があり、アルコール依存症などは感謝の心の欠如がいちばんの原因なので、ふかく反省することで必ずやめられるという。

ただし内観法を本格的に実行するには、一週間程度の時間、精神を集中できる施設、指導してくれる人、の三つが必要であり、そのため内観を集中しておこなうことのできる内観道場も作られている。そこではテレビやラジオや電話などから隔離された状態で、一日に十五時間ほど集中的に内観することができ、一時間か二時間に一度、面接による内観内容の指導もおこなわれる。思い出したくないことを思いだす嫌な修行、心の闇に光を当てるつらい修行であるから、目をそむけてしまわないように指導する人が必要なのである。

だからこうした内観は自発的におこなわなければ効果がない。道場に押しこめて無理やり内観させても内観にならないのであり、また本人が心の底から反省すれば必ず変わるが、分かっちゃいるけどやめられない程度の反省では変われない。だから内観している人に指導員が説教したりすることはないという。

しかも感謝の心はそれほど長続きしないもののようで、反省の度合いにもよるが、集中的に内観しても放っておけばたいてい三ヵ月ぐらいで元に戻ってしまうという。感謝の心を保つには、たえず反省を深めていかねばならないのであるが、反省が本当に徹底すれば、たとえ明日死ぬというようなことになろうとも、感謝の心で受け入れられるようになるという。

参考文献「内観法」吉本伊信 春秋社 2000年新装版第一刷

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