浦島太郎の話

「最近はテレビを見ていても、分からない言葉ばかり出てくる。どうして分かる言葉を使わないのか。英語の分からない年寄りはさっさと死ねというのか」

そう言って檀家の女の人がひどく腹を立てていた。これには私もまったく同感であり、意味不明の大量の外国語のために、日本語が日本人に理解できない状態になっているのである。ローマ字すら習ったことのない人が、日本にはたくさんいることを忘れてもらっては困る。

それでなくとも日本語は、日本の言葉と中国語が合体してできているため修得に手間がかかる。漢字を覚えるのにどれだけ苦労させられたことか。この上さらにカタカナ語やローマ字語が無制限に増えたらたまったものではない。

フランスには「公文書に外国語を使ってはならない」という自国語を守る法律があるというが、日本もこうしたことを見習ってほしい思う。せめて公共放送のNHKぐらいは、分かりやすい日本語で放送するように心がけるべきだと思うが、率先してカタカナ語を使っているような状態である。

ずいぶん前に読んだ小説にこんなことが書いてあった。その小説は未来の宇宙基地が舞台になっていたが、その基地はできるだけ外観を変えずに維持することになっている、とあったのである。その理由は地球上と宇宙船の中では時間の進み方が違うことにある。高速で飛行する宇宙船の中では時間の進み方が遅くなる。そのため飛行士にとっては数年の飛行であっても、帰還したとき地球上では何十年も経過しているということもあり得る。その現象をその小説は、浦島太郎の話になぞらえて「うらしま効果」と呼んでいた。

つまりその効果のために飛行士は、地球に帰還したとき浦島太郎の状態になっているのであり、そのため浦島太郎と同じ悲しみと苦しみを味わうことになる。その悲しみと苦しみをできるだけ小さくするため、基地は外観を変えないように維持されているというのである。

歳をとるのは浦島太郎になることかもしれない。新しいことはすぐに忘れ、思い出すのは昔のことばかり。だから浦島太郎の話の最後は老人の悲しみを表しているのかもしれない。歳をとったとき、周囲の人が話す言葉は外国語のようで理解できない、住んでいる町には昔の面影がない、というようなことだと、生きていくのも社会に適応するのも難しいと思う。

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